*骨董屋で見つけたいい物
 *妻が集めた盃台付酒盃
 *松本健宏さんの猫とローケツ染
 *何となく惹かれる中国陶磁
 *好きで集めたお茶碗
トップに戻る(It returns to the top.)
2024年12月22日(日)
嵐山・嵯峨野巡り


 ・嵐山・嵯峨野巡り ← Youtubeに掲載しました

 名残の紅葉を見てきました。
2024年10月22日(火)
神農巌さん人間国宝に
 
2023年10月2日(月)
日本工芸会陶芸部会50周年記念展
 
 会期 2023.9.9sat →11.26sun

 兵庫陶芸美術館

 〒669-2135 兵庫県丹波篠山市今田町上立杭4

 電話番号 079-597-3961

2023年3月2日(木)
有道佐一 回顧展

 SAICHI ARIMICHI 渾身の画家 没後40年 有道 佐一 回顧展

 4/5(水)~10(月) グンゼ博物苑 集蔵

 我が家に一点だけあります。

 絵を売らなかった画家らしく散逸を免れています。

2023年2月11日(土)
陶 三人展


 「陶 三人展」

 伊賀 谷本貴
 信楽 澤克典
 瀬戸 山口真人

 2023年2月15日(水)~2月20日(月)
 高島屋京都店 6回 美術画廊

*15日、雪の予報ですがどうでしょう?寺巡りも兼ねて出かけますか・・・

2023年1月11日(水)
天目 鎌田幸二展


 中国の春節に合わせて毎年展示会される案内が届きました。

 今年の水際対策・・・当てが外れなければいいですが⁈

 2023年1月18日(水)~23日(月)

 京都高島屋6階美術画廊

  
2022年9月24日(土)
有本空玄 作陶展


 還暦記念 有本空玄作陶展

 高島屋大阪店 10月5日(水)~10日(月・祝)
 高島屋京都店 10月26日(水)~31日(月)

 懇意にしていただいている作家さんの個展があちらこちらで開催されます。

 京都とはいえ日本海に程近い綾部という片田舎に住んでいますので、伸びて枯れてしている雑草・樹木を片付けるのに忙しい毎日ですが、個展会場を巡ってみたいと思っています。

 
2022年9月17日(土)
猪飼祐一 陶展

 猪飼祐一陶展

 9月22日(木)~10月2日(日)

 秋になり、陶磁器展が忙しくなってきました。

 
 
2022年8月31日(水)
「近藤 濶と一門」展


  「近藤 濶と一門」展

   近藤悠三記念館

   2022年9月3日(土)~10月23日(日)まで

  高山 大さんよりご案内いただきました。

  生憎、オープニングレセプションの日は、京都サンガvsヴィッセル神戸の観戦に行きます。

  「高山さんの高島屋個展」(10月5日~)に合わせて拝観させていただく算段をしています。

 
2022年3月29日(火)
髙山 大 陶展

 「髙山 大」陶展

 2022年4月1日(金)~10日(日)

 まん延防止等重点措置も解除されました。

 それでも、マスク・手洗い・三密を避けて・・・

       
2022年3月12日(土)
イソノミア 金重友邦展

 「イソノミア」 金重友邦展

 阪急梅田本店 9階 阪急梅田ギャラリー 

 2022年3月16日(水)~21日(月・祝)

 「21日の期限での全面解除を視野に調整に入った」まん延防止等重点措置、とはいえ油断なりません。

  マスク・手洗い・三密を避けて・・・

 
2021年12月30日(木)
天目鎌田幸二展


 来年早々に高島屋大阪店で開催されます。

 ・・・会期が変更・中止になる場合がございます。

 オミクロン株・・・厄介ですね。

 マスク・手洗い・三密を避けて・・・

2021年11月10日(水)
別冊炎芸術

 「別冊炎芸術」より企画参加依頼が届きました。

 発行部数 15,000部
 予価 3,000円

 15,000人も見るのか、15,000人しか見ないのか、紙の媒体が年配者に偏っているなら購買意欲は高い・・・筈である。

2021年11月7日(日)
美濃からの発信 「やきもの講座」 前田昭博【重要無形文化財保持者】
 多治見市文化工房 ギャラリーヴォイス より届きました。

 前田昭博さんの「やきもの講座」参加募集でした。

 コロナ渦中ですので参加を躊躇いますね。

 健康であれば、また参加できるでしょう。

2021年9月29日(水)
前田正博 TOKYO 2020 東京2020 NIPPON フェスティバル

 前田正博さんからお手紙をいただきました。

 是非一度ご覧になってください。

   
 
2021年7月15日(木)
萩 岡田 裕 陶展

 作陶50周年記念 萩 岡田裕 陶展

 7月21日(水)~27日(火)

 京都高島屋 6階 美術画廊

 コロナ渦中、人出は如何でしょう?

 ギャラリーに新作を揃えていきたいですね・・・
2021年6月5日(土)
やきものの現在


 6月20日まで京都に緊急事態宣言が発令されていますので、動くことができません。

 この催しは、6月26日からですが、踏み出せませんね。

 7月以降、DIYで「陶磁器ギャラリー」をリフォームしようと思っています。

 仕上がる過程を報告したいと思います。

2021年5月11日(火)
前田正博 色絵磁器展


 個展に久し振りに行ってきました。

 茶碗坂を上り始めて直ぐの処にある、その昔猪飼祐一さんの作品が展示即売されていたお店だった処です。

 二階に上がらせていただいたのは初めてでした。

 前田さんにお会いしたのも久し振りでした。

 覚えておられたのか心もとないです。

 京都にも、緊急事態宣言が発令されて、また身動きできなくなりました。

 作品と作家に清々しく会える日が来ることを願っています。

                                             

      

2020年2月13日(木)
神農 巌 堆磁展


 兵庫陶芸美術館に、「神農 巌展 堆磁」を見に行った。

 神農さんは綾部で生まれ育ったと思っていたが、私と同じく福知山で育った。

 一宮神社近くに生家があったといわれる。

 それなら、大正小学校に通われていたので、桃映中学校に通う道すがらに見かけることがあったのかもしれない。

 未だ、国道九号線が整備される前の話である。それは、家移りした私が福知山城の下を通う前のことである。

 

2020年1月29日(水)
鎌田幸二&糸井康博陶展 と 伊藤若冲 と 婦人画報創刊115周年記念特別展


 中国春節前に天目展が行われた。

 「コロナウィルス」、この騒動が予見されていたかのようである。

 鎌田幸二さんは中国で人間国宝扱いだそうだ。

 猪飼さんのお弟子さんの糸井さんと暫くお話をして、美術館「えき」KYOTOで「婦人画報と京都」を鑑賞する。

 創刊以来の表紙の中から約200点が掲載された表紙に見入ってしまった。

 若かりし頃の女優の表紙もあった。

                           

2019年12月22日(日)
京都南座 吉例顔見世興行


 先日、南座新開場一周年記念 京の年中行事「吉例顔見世興行」の観劇に行ってきた。

 この日は、歌舞伎一色で、十三代目市川團十郎白猿襲名記念「市川海老蔵」展を高島屋で観た。

        

 幕間弁当と酒が楽しみだが、生憎車だったので酒は断念して「お好み天丼弁当」を天ぷら新宿つな八京都店で買ってほおばった。

 この演目、この役者を贔屓にして観に来たわけではないが、「中村莟玉」という役者に惹かれた。

 『釣女』の上臈、『越後獅子』の角兵衛獅子で目を引いた。

 すっかり虜になった家内は掲載された記事を探している。

                           

2019年12月17日(火)
有本空玄 作陶展


 福知山インターから高速バスに乗り大阪なんば高島屋に行った。

 都会に行けば、手に入れたいものが一杯あり、夢を両手に来たものだったが

 田舎で作った徳利と盃を都会で買い

 田舎で造った酒を陽に灼けた畳に胡坐をかき

 キラキラした都会で買った器で呑む。

 若い日の夢というのはこういうことだったのか、と思う。

 

2019年11月30日(土)
落ち葉
  


 此の頃、庭の落ち葉を掃く。

 掃いているうちに、いろいろ思い浮かんできたことが落ち着き、軈て静かな心持になる。

 僧が箒を手にして掃くことも修行の一つだと思える。

 心を清める。面倒がらず、嫌がらず続けよう。
 

2019年11月10日(日)
京都非公開文化財 特別公開


 秘められた皇室ゆかりの品々が公開されます、といううたい文句に誘われて

 ・冷泉家住宅
 ・昭和天皇御大典着用の束帯

 ・東福寺 三門
 ・釈迦如来坐像

 ・正覚庵 本堂(旧白洲屋敷)
 ・正覚庵 茶室(旧白洲屋敷玄関)

 「月村」の女将さんに勧められて・・・

 「東福寺 三門」からの眺めは良かった。三か所とも写真撮影禁止だった。

2019年10月19日(土)
天目 古川 剛 作陶展


 高速バスに乗り、OCAT(大阪シティエアターミナル)で娘と落合、其処で家内と別れ、「天目 古川 剛 作陶展」を京都高島屋に見に行った。

 家内と娘と、「酒処 てらやま」で再び落合、酔い心持になって、嵯峨野線から山陰本線に乗り換え帰宅した。

 どの作家が作っても天目は天目、されど天目、違いを生み出せるか?

2019年7月25日(木)
陸別ー関寛斎・司馬遼太郎

 陸別という地名は、北海道出身者でも知らない人が多い。

 「可憐な町」と、司馬遼太郎は言った。

 住んでいる陸別の人達はどう思っているのか知らないが、私にもそう見える。

 
2019年7月5日(金)
陸別・足寄・本別 40日間の滞在

 5月20日から6月30日まで陸別・足寄・本別で過ごした。

 陸別は2回目である。

 NHK連続テレビ小説「なつぞら」の舞台だそうだ。ロケ地はシークレット。

   

   

  本別 居酒屋 酒一筋
2019年5月18日(土)
シャガの花 京都府綾部市老富町

 京都府綾部市老富町 「水源の里・老富」

 花名の由来

  シャガの花名の由来には諸説あり、同じアヤメ属の檜扇(ヒオウギ)の漢名である「射干」を音読みしてつけられたともいいます。

  また、シャガ(射干)は「著莪」「胡蝶花」とも書かれ、別名ではコチョウカ(胡蝶花)とも呼ばれます。

  英語では「Fringed iris(フリンジのついたアイリス)」や「Crested iris(とさかのあるアイリス)」と呼ばれます。

 花言葉の由来

  花言葉の「反抗」は、剣状の鋭い葉や陽光を避けて日陰で花を咲かせることにちなむともいわれます。

  「友人が多い」の花言葉は、タネができず、地表をはう根茎を伸ばして群落を形成することに由来するといわれます。

 ヒメシャガ(姫射干、姫著莪)

  同じアヤメ属のヒメシャガは日本固有種です。シャガよりも小さく、似ていることから名づけられました。5月~6月ごろに紫色の花を咲かせます。シャガとは異なりタネができます。


 シャガの花言葉は、反抗的な意思表示の言葉

  シャガの花言葉には「私を認めて」という花言葉があります。日陰でも花を咲くことから「私を認めて」という花言葉が生まれました。

  相手に認めてもらいたいような時に使うべき花言葉ですが、意思表示がやや強めなので相手を見て贈る花言葉です。


  
2019年4月25日(木)
平和の琉歌

  ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』のダイジェストの映像を観たときから、沖縄を旅行すればライブハウス「島唄」で『平和の琉歌』 作詞/作曲:桑田佳祐 を聴きたいと願っていた。

  それは叶わなかったが、何時からか四人から三人になっていた。

  平日であった所為か客の入りは少なかった。

  そこかしこに島唄が聴ける居酒屋が出来ていた。

  【当店は『民謡クラブ』とは違う【ライブハウス】形式です。お客様からライブチャージ2,000円を頂き『プロのステージ』を楽しんで頂きます。】とある。

  
2019年4月14日(日)
ひめゆりの塔

 

 

 朝食前に、連続テレビ小説「おしん」「なつぞら」を見て目頭を熱くして、ひめゆり平和祈念資料館の第4展示室の証言を読んでまた目頭を熱くした。

 

 残波岬灯台のきつい階段を上ってきた沖縄の二人連れの女子に「何処回られました?」と聞かれて、幾つか答えて「ひめゆりの塔」と言うと嬉しそうに微笑んだ。

 

 19581015日、沖縄戦で焼失した守礼門が復元された時の写真がホテルの廊下に飾ってあった。

 



写真提供:沖縄タイムス社

 

2019年4月6日(土)
『ホタル』 知覧


 「二度と戦争は厭だ・・・」と、今は、私も家内も分からなくなった97歳の母は言っていた。

 「鳥目の奴がいてな・・・」と、義父はそれだけであとは何も話さなかった。

 知覧武家屋敷を観て廻った。富屋旅館の前に立った。知覧特攻平和会館に行かなかった。

 『ホタル』という映画を一人で観た。

  鹿児島県知覧特攻基地から出撃する前の最後の夜に富屋食堂を訪れ,朝鮮半島に伝わる民謡「アリラン」を歌ったとされている朝鮮人特攻隊員・卓庚鉉(日本名・光山文博) をモデルとする高倉健

 主演の映画『ホタル』(2001年)

  映画の中で富子に、特攻隊員を「殺したんだよっ」と絶叫させる場面がある。また、朝鮮出身の特攻隊員・金山少尉に「検閲のある遺書に本当のことが書けるか」と言わせる場面がある・・・こういう

 意図を前面に出すこの場面を私はあまり好きでない。言葉にしてしまえば思いが却って届かない。言葉にしなければ思いに辿ろうとする。言わなければわからない・・・男と女ではない。


 
2019年4月1日(月)
蠟絵染・松本健宏展

 
 京都府綾部市の古屋地区を題材にしています。

 古屋集落は所謂「限界集落」

 それを綾部では「水源の里」と呼ぶ。

2018年12月22日(土)
コピ・ルアク

 

ホーチミンのツアーガイドから「ジャコウネコ コーヒー」を販売している市場を紹介する、と言われ、お土産品は残された者にとって始末に困るものだから買わないでおこう、と固い夫婦の約束だったが、

 飲食物なら負の遺産にならないだろうという
ことで買った。

家内は「東京の喫茶店では一杯数千円するのに、数百円で売ってくれるなんて可笑しくない?」

「そこかしこの市場の店で売るほど量が採れるって可笑しくない?」

  コピ・ルアク(インドネシア語:Kopi Luwak)とは、ジャコウネコの糞から採る未消化のコーヒー豆のことである。

  可笑しい可笑しいと夫婦言いつつ買った。

  どうも気になってジャコウネコの糞を調べてみた。

  「コピ・ルアク」はとっても高価なコーヒーとして有名で、500g300500ルで取引されています。「コピ・ルアク」の産地として有名なのはインドネシア。ベトナムではダラット(高原地)の名産品と

   なっています。ベトナム語名は「CAFE CHON」。英語名は「Weasel coffee」で販売されているので探してみてください。ただし、ホーチミン市内で売られているのはほとんどがニセモノ


   です。ベトナム人の彼女に聞いてみたんですが、ホーチミンでは本物の「コピ・ルアク」が買える店は見つかりませんでした。ハノイでも旧市街まで買いに行かないと本物が売っていません。当然ベトナムなの


   偽物が多数出回っています。

  ジャコウネコのコーヒーは本物であれば、小売価格は最低でも1kg400,000VND2000円)します。まず空港で販売されているメーカーのものとかもほとんど偽物です。


  映画、「最高の人生の見つけ方」に大笑いするシーンでコピ・ルアク(インドネシ
ア語:Kopi Luwak)、ジャコウネコの糞から採るコーヒー豆が登場している。

 世界一高価で希少で美味しい珈琲と紹介している。

 

  「ホーチミンで買った豆、試に飲んでみます?」

  「いや・・・裏庭に捨てよう」

  懲りもせずハノイの土産物店で買ったコピ・ルアクは本物を思わせる包装だった。

  「これは飲んでみようか?」

  「・・・」お土産に三袋買ってきた。じっと眺めていた。

  仕舞いに「どうぞ飲んでください」と家内は言った。

  ハノイのツアーガイドが「ハノイは中国との国境に近いため、中国から密輸品が多く、路端で売っている果物は中国で防腐剤を塗布したもので長い間腐らない、ハノイの旧市場で売っているのは中国製、

  ベトナム製を売る店は少ない、ゴムを烏賊
と偽って売っていたこともある。だから、ハノイの人は内臓が悪い」


2018年12月8日(土)
バッチャン焼き


 

バッチャン村、詰まりバッチャン焼き。

そのバッチャン焼を買って帰った。

本来なら、行く前に下調べをしていくべきだが、負の遺産になるから土産物は買わないでおこう、という固い約束でベトナム土産について何も調べなかった。

帰宅してから調べた。

というのも、どういう店で買ったのか、本物なのか偽物なのか皆目見当がつかない。

 ツアーガイドに散々本物と偽物が混在していると口酸っぱく云われていたのだが・・・

明らかに他の器とは違う何枚か重ねられた皿を見ていると、店員が「それは名人の作です」と言ったのも気になっていた。名人と認められているのは5人だという。

 

しかし、驚いたことに、幾つかブログを読んでいると、ひとつのブログに買って帰った壺の写真が掲載されていた。それで、買った店の名前が判明した。

 


 「バッチャンコンサベーション」で陶磁器をお土産に
【ツアー価格に自信あり!】ベトナム旅行の専門店ベトナム王 2017年09月19日(火)

バッチャンコンサベーション(Bat Trang Conservation

村の入り口を背に、通りに沿って5分ほど歩いた右手にある店。12階の売り場には、日常使いに良いバッチャン焼きが品数豊富に揃い、3Fにはアンティーク

販売も。最上階は工房で、職人たちの手仕事が見学できる。制作体験も可。

住所:Giang Cao, Bat Trang, Ha Noi

営業時間:8am-5pm

 

バッチャン村は人口5000人、その内90%以上の村人が何かしらの陶磁器関連の仕事に従事しています。15世紀から17世紀初めまで繁栄を極め、交易国の日本にも多数輸出し、宗主国である中国、オランダを

はじめとする欧州にも輸出されました。


中国らしい文様ですが、ベトナム独特の自由と美しさがあり、幸運の象徴とされているトンボなどが描かれているのが特徴です。

バッチャン焼きは1516世紀頃に栄えたベトナム伝統の陶磁器。バッチャン焼きとは、ここバッチャン村で作られた陶磁器を指し、別のところで作られた陶磁器はバッチャン焼きとは言いません。本物を確かに

購入したければ、バッチャン村で直
接買うのが確実といえます。

2018年11月16日(金)
「宇吉堂」が亡くなった。


 連絡が無ければ年賀状を出していただろう。

 「宇吉堂」のブログを見なくなってから久しい。

 亡くなったのを知らなかった。

 宇吉が金沢に住んでいたころ大阪で会ったのが最後だった。家内はそれから大学時代の同級生四人で会っていた。

 その時に滋賀に引っ越すと聞いたのか、引っ越してから手紙で知らせてくれたのか忘れた。

 宇吉の財布の中に、小さく折りたたんだ紙切れに家内(我が家)の電話番号が書いてあった。

 その紙切れが無ければ亡くなったことを知らずにいた。

 縁側に出て湖の風を弱っていく体に当てていたという。風を受けて空を眺めていたという。


 合掌


2017年10月12日(木)
北海道を舞台に

 一か月の北海道陸別暮らしから帰ってきて北海道を舞台にした映画を立て続けに観ている。

 

 「幸福の黄色いハンカチ」「駅」「鉄道員:ぽっぽや」「北のカナリア」「ぶどうのなみだ」「愛を積む人」などなど・・・高倉健と吉永小百合の映画が記憶にある。

 





 特に「幸福の黄色いハンカチ」は幾度も繰り返して陸別駅と駅前を見ている。

 デジタルリマスター2010版の映画「幸福の黄色いハンカチ」に30分過ぎから昔の陸別駅前の景色が見られる。国道502号の標識、「かわもと仕出し」「赤とんぼ」「さいとう」「スナック サウンド」の看板が

 見える。この中で私が陸別町内を歩いていて目にしたのは「赤トンボ」の看板である。


 


陸別ロケは
1977年(昭和52年)5月のことである。40年が過ぎている。

 

2017年9月11日(月)
I went to Hokkaido on vacation. 6/16~6/30

 

陸別町ちょっと暮らし

 

616日()  実際の気温20° /10°

 休息日。

 曇り空から青空がのぞく。

 昼から買い物に出掛ける。

 郵便局に行く。

 

 買い物の前に、移住窓口担当の清水さんのお勧め蕎麦屋に行く。「自社製粉でいつも挽きたて、つなぎを一切使用せず、道内産そば粉100%の手打ち」「各種雑誌に取り上げられることも多い有名店、

 遠方から食べに来る常連客も多数」とのこと。

 お昼時なので店は賑わっていた。

 

 

 「道の駅 オーロラタウン93りくべつ」施設の「ふるさと銀河線 りくべつ鉄道」に立ち寄ると「幸福の黄色いハンカチ」のスチール写真が今日は飾られていた。

 その横に、スチール写真より「陸別町で酪農しませんか
!!」「新規就農者募集中」、「地域おこし協力隊員募集中」の大きい貼紙があった。

 

 

 「りくべつ低温殺菌牛乳」は「全国的にも珍しい自治体運営による生産。低温殺菌による牛乳本来のまろやかな甘さが引き立ちます」と「山と森のごちそうカタログ」にあった。

 奨励金を出してまで酪農就農者を募るのは、自治体運営によるからだろうか。生乳を確保しなければ施設が無駄になる、ということだろうか?

 

 

 Aコープに寄って買い物を済まし各家の庭の花を撮影しながら帰る。内地なら、花が植えてあっても、それは人目につかない。塀か植木に隠れて咲いている。家々の花を眺めながら散歩する。これは、

 都会の人にとって胸躍ることであり、在り得ないことである。


 

 

 

 

 

 

 

 

6月17日(土) 実際の気温24° /10°

 「ワッカ原生花園に行きたい」と妻の願いで向かう。

 午前9時過ぎ出発。

 「ワッカ原生花園」に行く前に「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選ばれた「感動の径」に寄りたい。ナビで検索しても見つからない。近くの道の駅で尋ねようということで、また道の駅

 「メルヘンの丘めまんべつ」に行くことにした。


 

 

 普通のソフトクリームと「白い恋人」ソフトクリームを食べてから尋ねると「隣の観光案内所で聞いてほしい」といわれ、観光案内所で聞いたがここでもよくわからなかった。「感動の径」の看板が立っている

 ということであったが見当たらなかった。だが、いまは亡き黒澤明監督の映画『鴉』(オムニバス映画『夢』第五話)のロケ地であるという。車一台通らない。ロケは平成元年(
1989年)で29年前の話である。

 アイスクリームを売っていた娘が知らないのは当然である。


 

 「そこより、知床斜里の『天に続く道』がいいですよ。私もつい先日行ってきて感動しました」、そこに行くことにした。

 その前に昼食だが、礼文の旅館で出された食事がそこいらの海辺の民宿と同じ内容だったので(ウニは少量だったが美味しかった)、オホーツクの鮮魚が食べたくて網走回転寿司「カニ源」で昼食となった。

 本日のおすすめと書かれた5種類の握りを頼んだ。

 

 網走は霧に覆われていて肌寒かったが「ワッカ原生花園」も13℃だった。「原生ってこんなものよ。ガーデンとか公園とついているのは人の手が入っているから密集しているけど、自然に咲いているのは

 疎らなもの・・・礼文島だって疎らだったでしょう」と、私が「花が少ない」というとそう答えた。


 

 [道の駅 スタンプラリー2017]のスタンプ押し。

 道の駅「サロマ湖」→「愛ランド湧別」

道の駅「おんねゆ温泉」に着いて妻が欲しがっている薄荷飴を買おうとしたが、「からくり王国・果夢林の館」は5時閉店だった。諦めて立ち去ろうとしたとき、6時の時報に合わせ、さまざまな楽器を

 手にした森の妖精が踊りはじめ、羽の長さ約
2mという大きなハト「ポッポちゃん」が登場して羽を動かしたりして、やがて妖精が左右に引っこみ、「ぽっぽちゃん」も引っ込んだ。雨模様で午後6時と

 言うこともあり、観客が少なかった。


 

 温泉に入る用意をしていたので、土曜日で人が多ければ諦めることにして、「置戸 勝山ゆうゆう温泉」に来た。

 以前に来た時と同じくらいの車だった。妻に尋ねると、機会を待っていても無駄かもしれないから入りましょう、ということで入った。私は露天風呂に入ったが妻は入らなかったという。露天風呂には

 目の細かい網が虫除けのため張り巡らされていた。


 

 

 夜8時頃に帰り着いた。

お茶漬けが美味しかった。

 

618日(日) 実際の気温20° /11°

 朝5時半頃にトイレに起きて快晴なのを知り、オンネトーで偶然出会った友人の勧めもあり、知床五湖に行くことに決めた。

 820分発。カネラン峠を通る。このあたりの鳥は車が来ても避けない。車が避けていく。轢いたかと思ったが通り過ぎると羽ばたいていた。あわくってしまった。陸別でも、スピードを落として鴉を避ける

 トラックを見たことがある。トラックが通り過ぎてゆっくり鴉は飛び去った。こちらでは、車が避けてやらなければならない。

 

 寄り道に選んだのは、摩周湖を違う角度から見たい、と第三展望台に行く。途中、双岳台で雄阿寒岳と雌阿寒岳を少時眺めた。

 

 「どうして、第二展望台がないのだろう?」

 答えは出ず、道の駅「摩周湖」にて霧が晴れているか確かめて向かう。

 駐車場は小さく観光バスを誘うほどの広さはなく無料であったが外国の方が多く訪れていた。

 湖水は綺麗なブルーだった。日本語で色を表現すれば何色にあたるのかわからないが、兎にも角にも美しかった。第一展望台よりこちらの眺めが気に入った。眺めていると、不意と吸い込まれそうになる。

 神秘的、が間違いない。


 

 

 [道の駅 スタンプラリー2017]のスタンプ押し。

 道の駅「パパスランドさっつる」のトイレはこれまでで一番綺麗だった、と妻が言った。

 道の駅「メルヘンの丘めまんべつ」で勧められた『天に続く道』を探したが見つからなかった。

 「オシンコシンの滝」は、これまた外国の方が去っては寄せて賑わっていた。

 道の駅「しゃり」に立ち寄ると観光バス3台が道路に停まっていた。すべて外国人を乗せた観光バスだった。そのうちの一台は白人を乗せていた。

昼時となり、そこを早々に立ち去り食事処を探した。「しれとこ味里」で名物そばを食べた。

 

 道の駅「うとろ・シリエトク」に寄ってスタンプ押し。ここのトイレも綺麗。

 

 「知床五湖」到着。高架木道の全長約800mを歩く。暑い。その代り知床連山や遙かに広がるオホーツク海が見えた。特に、一湖の湖面に映る知床連山が美しかった。

 一人旅している女性が二人いた。そのうちの一人に頼まれてカメラのシャッターを押した。

 「家に帰って一人で見る写真は淋しくないか?」、と妻に言うと、「旅の思い出を友達に見せるかもしれない、賑やかに」と答えた。そして、「女が一人旅しているから淋しいなんて昔の話、気楽でいいのよ、

 ひとりは・・・」と加えた。


 

 高架木道からカメラを落としたと男性ガイドに助けを求めているカップルがいた。カップルが去ったあと、妻とそのあたりを覗き込んでみたが見当たらなかった。落とした者でしかわからないほど笹が覆っていた。

 況して電気柵が張り巡らされているので勝手に下りて取りに行くことができない。ヒグマが潜んでいるかもしれない。

 高架木道の出入り口まで戻ってくると、施設員三人とカップルが落とした場所に向かって行った。

 

 

 道の駅「うとろ・シリエトク」にあった地図で『天に続く道』がわかった。帰りに寄ることにした。海に向かって伸びる道は他にもあった。どうしてこれを喧伝するのかわからなかった。斜里で見られるのは

 此処だということだろう。人寄せに何処も苦労している。


 

 顔がほてっている。日に焼けた。地元に日焼けした顔で帰れば、本当に一か月も北海道に滞在したのか、と問われそうだ。

 

619日(月) 実際の気温18° /12°

 天気予報とにらめっこして出掛けるか出掛けないか決めている。

 今日は曇り時々晴れなので、昨日の暑さに参っていたものの近くに行くことにした。

 

 午後2時前、クリンソウを見に行くことにした。丁度、昨日、一昨日は【ノンノの森フェスティバル】第12 回クリンソウまつりがあったので混雑を避けることになった。

最短で行ける道が通行禁止になっていた。

「ランプの宿 森つべつ」のホテル散策路内に“くりんそう”の群生地があった。絶滅危惧種指定でもあるらしい。50センチほどの茎に、小さな花が数段にわたって輪生し、その様子がちょうど仏塔の先の

 「九輪」に似ていることから、クリンソウと呼ばれている。
湿地などに咲くので、群生地には水辺を伴っている。外来種もあるらしい。

 

 

 道の駅「あいおい」に寄ってスタンプを押す。鉄道客車が展示されていた。北海道は廃線になった線区が多く、こうして廃駅近くに機関車、客車を展示して観光に活用している。

 午後5時20分過ぎに帰り着く。Aコープに買い物に出掛けようとしたところに清水さんが来られる。

 ゴミだし、空き家のことなどいろいろと話しているうちにAコープが閉まる6時前になる。慌てて話を打ち切って向かう。

 間に合ったのだが、閉店は3月から6時半になっていた。道の駅は6時に閉まる。それと勘違いしていたようだ。

 

 帰り道、各家の庭の花を撮影する。そのうちの一軒から私たちより年上に見えるご婦人が庭に招き入れて下さった。珍しい高山植物が咲いていた。

 「たくさんの種類が咲いていますね」

 「こったらべっこ・・・」

 道路脇に花は植えない、という。「雪ハネが、んでね庭の奥になげるだわ」

 除雪車が雪を庭の奥に捨てるという。情景が想像できない。

 「ありがとうございました」

 「いやいや、なんも、したらね~」

 

 先程、清水さんとお話しした中で「天文台の近くに咲く高山植物の花を見に来られる方もおられますよ」ということであったが、それは「3000メートルの山に咲く、山の花の女王といわれる『こまくさ』

 ですよ。陸別の方の御庭に咲いていますよ」、と妻が言うと清水さんは驚かれていた。


 

 「れぶんあつもりそう」とまでもいかないが、「こまくさ」なら十分観光に役立つ。

 

 ルピナスが咲いている。妻は種が欲しいという。移植は根付かないという。庭いじりをしていた夫人が、自然に増えていく、と言われる。Aコープに種が売っていないか確かめる、と妻が意気込んで言う。

 

 

 

620日(火) 実際の気温18° /11°

 午前6時起床。

 生ごみを捨てて、8時「風のガーデン」に向けて出発。

 9時半前後に道の駅「ピア21しほろ」で休憩する。

 10時頃、道の駅「うりまく」に立ち寄る。ここから休まずに、道の駅「南ふらの」でスタンプを押すためひたすら走る。午前11時過ぎに到着。

 

時々目にする畑の真ん中にポツンと1本・・・これは入植した際に最初に家を建てたときに植えたもので、家の場所を変えても開拓をした初代が植えたものは切れない、ということらしい。防風林として

 機能しないが農作業の休憩時に日陰となる。


 

 「風のガーデン」に向かう前に、昨年も訪れた富良野「そば屋十六文」で蕎麦を食べる。相変わらずおかみさんが忙しく立ち働いている。私たちが店を出るのと擦れ違いに若い二人連れが入っていくと、

 女将さんが出てきて閉店の看板を掛けた。


 

 午後一時過ぎ「風のガーデン」に到着。

 

 

 女性は花好きなのか女性グループが多い。そして、ここも外国の方が多い。カップルの女性がハシャイデいる言葉を聞いていると韓国語と中国語が多い。写真を撮る人が多く、自撮り棒がそこかしこに立っている。

 「ニングルテラス」を巡り「珈琲 森の時間」に下って行く。

 ブレンドコーヒー600円だった。自分でコーヒーミルを回すカウンター席は満席だった。

 

 

 

 4時過ぎ、花「ラベンダー」探しに行く。そば屋の庭のラベンダーが咲いていなかったのでここも開花していないだろうと思いつつ「富田ファーム」を訪ねると、やはり咲いていなかった。

 

 午後540分、富良野駅横のホテルに着く。日本人は泊まっているのだろうか?

夕食は、「くまげら」に出掛ける。居酒屋に行くことがないので、高いのか安いのかわからない。女の子(留学生?)が多く働いていた。店の従業人が不足しているのか、台湾・中国などから多くの観光客が

 来るのか、その応対のために雇っているのだろうか?これは、斜里町の飲食店でも見受けられた。その店の女性従業員はフィリピン人だっただろうか?


それより、店の横にサクランボが鈴生りに成っていた。鳥除けに網とCDがぶら提げてあった。一つ取って頬張ってみたかった。

 

 禁煙室・セミダブルベッドの部屋。65歳の老夫婦には拷問のようであった。明日は、また花見。

 

621日(水) 実際の気温21° /13°

 花を観る前に「青い池」に行くことに昨夜相談して決めていた。

 「青い池」が観光地として急浮上してきた。昨年、9時頃には人で溢れたので9時までに見てしまうことと決めた。8時に出発。840分に到着。

 池沿いに歩いて引き返してくると高校生の集団が入れ替わりに池に向かっていた。呑みこまれてしまうところだった。

 

 

 『北西の丘展望公園』に行く。そこに数軒の店が並んでいる。その中に並んで二軒の写真館があった。

そのうちの一軒で、「写真家である夫が17年前の冬に撮った写真です。このころは笹が蔓延っていて誰も入ることができなくて、熊もいますしね」と「雪の青い池」の写真を見せてもらう。川を堰止めたころは、

 池に立っている木々は高かった。


 

外国の方と修学旅行の生徒たちで賑やかだった。

 修学旅行に来ていたのは、京都「城南菱創高校」だった。妻は新任で宇治に住んでいたから、それとなく尋ねていた。

 「城南高校と西宇治高校を統合し、西宇治高校の校舎を利用して開校しました」という説明で、妻は懐かしがっていた。城南高校前の店でよく食事したけどどうなったのかな?それには、40年以上前の話だから

 生徒が首を傾げるのも無理ない話だった。


 引率の先生が「次は『青い池』」というと、「また、やまのなかぁ~山行き過ぎぃー」と女生徒が言った。その口振りがおかしくて妻と何度も真似して笑った。

 

 北西の丘展望公園の観光案内所で教えてもらった「丘のまち びえい ふるさと市場」の棚に作物は殆ど残っていなかった。アスパラを買う。二日後に収穫が終わるという。

 もうひとつ教えていただいたのが、「フェルム ラ・テール美瑛」に隣接する「愛を積むひと」(2015年公開)のロケ地。ロケ地に選ばれる場所は本当に足を止めてしばらく眺めていたいと思える場所ばかりだ。

 

 そして、北海道ブルーリストにも記載されているコウリンタンポポが綺麗に群生していた。

 (コウリンタンポポにはもう一つの別名もある。エフデタンポポとかエフデギクというのである。首の長い立ち姿が絵筆を思わせるからその名がついたらしい。なかなかに優雅なネーミングだ。この名前も


  外国の影響で生まれていた。アメリカに導入された時につけられた名前が「ビーナスの絵筆」。そこからエフデタンポポの別名が付けられた。ところが、アメリカではこの花のあ

  まりに強い繁殖力のためにいつしか「悪魔の絵筆」と呼ばれるようになったことは意外に知られていない。天使から悪魔に変わっているのである。)

 次に今日の目的の一つである「四季彩の丘」に向かう。

 日本人に会うのが珍しいと思えるようになっていた。「ラベンダー」は咲いていなかった。それにしても広大だ。昨年も遣って来たが、また広くなったのだろうか?全体は、未だ満開にほど遠かった。

 

 午後一時を過ぎていた。昼食に「富良野ワイン工場」のラベンダーを見てから、「ふらのワインハウス」で一番人気の「チーズフォンデュ」を食べる積りであったが、ラベンダーがまだ咲いていないことは

 分かっていたし、チーズフォンデュは京都でも食べることができる。なら、本場のマトン?ラム?(羊)肉が食べたくなった。


 「ひつじの丘」で食べることにした。

 給仕してくれた青年が京都・右京区(嵐山)出身だと自己紹介してくれた。私たちの住む地元のことで盛り上がった。彼は住み込みで働けるところを探して日本全国を回っており、前に訪れていたので

 ここで働かせてもらっているということであった。


 初めての羊肉は美味しかった。臭みを取るために調合した液に漬けているのだろう。

 会計支払いは店長が受け持っていた。

 「北海道は初めて?」

 「いえ、僕は家内より一回多く、五回目です」

 「北海道何日目?」

 「もう、二十日程居ます」

 「なんで?」

 「二地域居住地探しです」

 「移住するの?」

 「それの体験、ちょっと暮らしです」

 「何処に?」

 「日本一寒い陸別町です」

 「何処?・・・どこの空港が近い?」

 戸惑った。北海道の方が知らない。小さな、2,500人程の町で、日本一寒い陸別町ですが・・・

 「・・・女満別空港です」

 「だれも乗らないね。だから飛ばせないよ」

 「・・・」

 「何して食べているの?」

 「酪農と林業・・・その他これと言った産業はないようです・・・」

 「終いに無くなるよ・・・暮らしていけないよ」

 これが現実なのだろう。

 

 「ふらのわいん工場」に行く。

 ワインの試飲を妻がしたが、最前の「ヒツジの丘」で呑んだビールで酔ったらしく味がわからないと言う。それなら、ということでブドウジュースを試飲する。酔った体に頗るおいしいと妻が言う。

 ブドウジュースと限定キングサイズワインを買う。

 

 陸別町のお土産をまだ買っていない。「キトピロの塩」「キトピロの味噌」はどうだろう?キトピロはアイヌ語で行者にんにくのことである。陸別産のキトピロが使ってあればお土産に相応しい。

 

 道の駅「自然体感しむかっぷ」でスタンプを押す。

 道の駅「樹海ロード日高」でスタンプを押し、274号線で帰途に就く。だが、清水町へは土砂崩れで通行禁止だと、遮断ゲートまで来て引き返す。

 そこで、道東自動車道「占冠」から「十勝清水」まで無料ですからそれを利用して帯広方面へ行ってください、ということだったが、「十勝清水」の料金所を通過すると1,410円課金された。

 

 遠回りした所為か、200キロ走らなければならない。雨が降るところ降らないところを走りながら、たっぷり時間があるので、信号のない直線道路が眠気を誘わないためにも、陸別町の行く末について妻と話す。

 

 「町長が観光を勧めて下さったから観光ばかりしているけど、『ひつじの丘』の店長の言葉は切実だったね」と妻が言う。

『ひつじの丘』の店長、「陸別の人は何で食っているんだ」

 酪農と林業・・・銀河の森(オーロラ)天文台、陸別(ふるさと銀河)鉄道、日本一寒い町で観光客を呼び込んでいる・・・と挙げると、

「星が綺麗だから銀河の森で売っているのかもしれないが、北海道の何処彼処もそれをうたい文句にしている。ここも(星に手のとどく丘)で売っている」

そういえば地元に「天文館パオ」がある。

「天文台など都心でもあるだろう、京都なら嵐山トロッコ列車があるだろう・・・」


 京都右京区・嵐山出身の従業員の方を見て続ける。

「日本一寒いってマイナス要素だろう。誰がそんな寒いところに住む?」

 確かに、である。

 

 「陸別町紹介動画、『PRショートムービー「りくべつ 夏」』を作成して頑張っています」

 「誰に対してPRしているんだ?」、と店長。

 私にもわからない。

 

 「さっきから気になっていたんだけど、『四季彩の丘』って農協が開設して運営しているのかしら、それとも個人企業?」

   「四季彩の丘を始めた7年前に『展望花畑 四季彩の丘』を開設したのは、美瑛町農協の理事でもある熊谷留夫・・・丘陵に花を植え、都市からの観光客を呼び込むことを思い立つ。しかし、当初は周囲を


  説得してもその価値を理解してもらえなかった。四季彩の丘は99年から着手し、2001年にオープン。すべて熊谷が一人で始めた。約20年前から美瑛町農業協同組合の理事を務める

  熊谷は、かつて農協にその開設を何度も働きかけた。しかし、理解は得られなかった。

  『そんなに儲かると言うのなら、熊谷さんがやればいいじゃないか』

  熊谷は、その言葉で踏ん切りがついた。そうして7年前に、花作りの経験などない熊谷の手によって、四季彩の丘はオープンされたのだ。

  美瑛の人々の意識も変化が起きてきた。最初は遠巻きに熊谷の取り組みを眺めていた農家や農業関係者たちも、道内の新聞やテレビが積極的に四季彩の丘を取り上げ、訪れる


  観光客が増えるようになると、熊谷の事業に共感し、感謝してくれるようにもなった。

  また、熊谷は四季彩の丘を始める約10年前の92年にはペンション「ウィズユー」を開業した。また、これも実現するまでには大きな困難があった。

  ウィズユーは上川地区での初めての農家ペンションであり、人々の農家ペンションに対する理解もなかった。不動産業者による農地買収が盛んだったバブル期の名残もあって、

   農地転用に対する人々の目にも厳しいものがあった。農業委員会から許可が下りた後ですら、道内の経済誌に熊谷の行動を批判する記事を書かれたりもした。地元の人の悪意の

  中傷がその記事の元になっていた。

  熊谷の家は水田を中心に畑を含めても10haもなく、北海道では小さな部類に入る農家だった。折から生産調整を機に離農するという人が町内にいて、7haの規模拡大ができた。


   それでも15ha。北海道では小さな規模である。しかし、丘の町と言われる美瑛にあっても熊谷の農地は平場の水田がほとんどだった。当時であれば十分に食べていける規模

   だった。半年は農業をして、冬には好きなことをやって暮らすのが北海道農業の良さだと思っていた。

 「観光ばかりしていては申し訳ないね」

「・・・喧噪のない、歩いて回れる小さい町が理想で陸別町を選んだけど・・・」

「・・・でも、動くとしてもヘイ・オン・ワイには古城があるでしょう、陶磁器のほかに観光客を呼べるものがある?」

 「旅行、観光を兼ねて来てもらえるように空き家を一軒ずつギャラリーに整備して町全体を陶磁器の町にする」

 

 午後10時前に帰り着く。

 

622日(木) 実際の気温19° /15°

 カーテンを開けると木々が揺れて風が強い。休息日。

 午前8時半、清水さんが私の前半日記を記録したSDカードを返しに訪ねて来られる。明日、東京に出張する、と告げられる。移住者を募る説明会があるのだろうか?

そして去り際に、これまで町興しの提案がいろいろなされてきたのだろうか、「町は動かない」といわれる。

 私に、頑張っていただく、と言われて役場に向かわれた。

 

 清水さんは埼玉出身だ。余所者である。お父さんが5歳まで陸別に住んでいた縁があって、小さいころはおじいちゃんおばあちゃんの家に春・夏・冬休みなればお世話になり、大きくなってからは休みを

 利用して来ていたという。おばあちゃんが、職員募集しているよ、って連絡してくれて・・・前から此のあたりに住みたくてお願いしていました。


 

 忘れないうちに、終日日記を書く。

 忘れないうちに写真を整理する。

 

 

 

623日(金) 実際の気温24° /14°

 午前5時半起床。

 朝日が雲間から漏れている。

 天気予報を確認する。晴れるなら花のガーデンめぐり。

 なかなか結論が出ない。

 漸く、帯広は晴れるという予報で10時過ぎ出発。

 行先は「紫竹ガーデン」。

 

 10時出発。帯広は豚丼が美味い、ということで立ち寄った郵便局の駐車場で地元の婦人に美味しい店を尋ねる。

 「私は脂気が多いのは好きでないけど、多くても構わないなら、『ぱんちょう』に行かれたら」

 だが、取り敢えず「紫竹ガーデン」に行く。

 

 ブログに「お金を取って見せるなら雑草の始末をして」とあったが、パンフレットと違い酷い物であった。それにしても、「北海道ガーデン街道 八か所」の一つになっているが、駐車場は狭く観光バスは

 道端に止めるしかないだろう。関西の旅行会社が送ってきたパンフレットに『北海道ガーデン街道全八か所をめぐり名湯でゆっくり寛ぐ華の北海道
3日間』が掲載されていた。見事に咲いている「花の紫竹

 ガーデン」が映っていた。

 

 車中、携帯電話が鳴る。娘が昼休みになったのでメールを送ってきた。「小林麻央さんが亡くなった」という内容だった。午後2時半から会見があるという。

 妻が同じ病気だから心配して娘が送ってきたのだろう。

 

 「豚丼で腹を満たせば『紫竹ガーデン』の怒りも収まる」と向かい掛けたが、道の駅「なかさつない」が近かったのでスタンプ押しに行く。

 

 そこから「六花の森」が程近いと知る。ここも「北海道ガーデン街道 八か所」の一つになっている。これまで訪ねた「北海道ガーデン街道 八か所」の「紫竹ガーデン」を除いて従業員がそれなりの

 作業服を着用して多く働いていた。「紫竹ガーデン」は近所のおばさんたちがお手伝いに来ているようだった。こちらが挨拶しても返してこなかった。

 

 

 「六花の森」は綺麗に整備されていた。

 「レストハウス&ショップはまなし」でランチの時間が過ぎていたので、「マルセイアイスサンド」を食べる。「りくべつミルクのおあずけプリン」(プレーンとかぼちゃ)とどちらが好みだろうか?

 ここの店員の応対は始終笑顔だった。

 

 「早く家に帰りたいね」と妻が言う。

 二十日過ぎて陸別を「家」と言うようになっていた。

 静かで、ゆっくりと時間が流れている。ここは取り残されたようにひっそりしている。だけど、穏やかな暖かさがる。

 人が作ったガーデンや公園にない落ち着きがある。『家』に帰りたいと思うようになっていった。「家」に帰り、近所の花を眺めながら散歩がしたい。

 

 3時半頃に帰宅の途に着く。帯広を横切るのに幾つもの信号で止まった。都会の景色はどこも同じだった。これでは、午後6時に帰り着かない。

 音更木野SS・ENEOSのガソリンスタンドに寄る。1126円。

 セルフとある。店員を呼ぶ。セルフガソリンスタンドは二度目だ。丁寧に教えてもらう。

 「陸別はこの道でいいですか?」

 陸別を知らない、と高校をこの春卒業したての若者が言う。

 「足寄の先」

 「足寄なら、『ネイパルあしょろ』に体験学習・宿泊研修で行きました」、でも陸別は知らないという。

 

 道が直線になると、北海道の食事は概ね満足したが、これまで食べた中で不味かったものを妻と話し合った。道の駅「流氷街道網走」「しれとこ味里」の料理は不味かった。ガーデンと呼ぶに相応しくない

 と思ったのが、「紫竹ガーデン」で、これまで通り田舎のおばあちゃんの庭でよかった。


 

 道の駅、「オーロラタウン93」で予約していた「りくべつ低温殺菌牛乳」の受取時間に間に合わなかった。午後610分位にAコープに帰り着く。

 6時半に帰宅してテレビを点けると「北海道ちょっと暮らし利用ランキング」平成27年度実績を放映していた。1位が釧路だった。陸別は利用者数等上位10市町村で表示されなかった。

 

 清水さんが東京に陸別移住促進の説明に行かなければならないのがよくわかる。

 

 撮り溜めた写真を見る。

 

 

 

 

624日(土) 実際の気温20° /13°

 妻が起きて、小林麻央(享年34歳)のテレビニュースを見ている。

 続けて「ひよっこ」を見ている。

 掃除。

 買い物先の相談。足寄駅まで34.1キロ、グリーンコープ津別まで38.3キロ、イオン北見まで54.4キロ。結局、Aコープに決まり。

 晴れ間が出てきた。寒いと思って重ね着をしてきたが暑かった。

 町を歩くときはカメラをいつも携帯して写真を撮っている。野菜を植えている同い年くらいの男性に声を掛ける。

 

 「ここはみんな勝手に好きなことをしている。若い者は出ていきたければ出ていけばいい。死ぬまで楽しく暮らせればいい、その先のことは知らない」

 

でも、それなのに人口は横ばいだという。高校を卒業して出ていけば代わりに若い人が遣ってきているという。

平成267月頃は2,595人で平成294月現在は2,482人である。これを、おおらかに「なぁんも、横ばいだべ」というのだろう。

 

 その場を辞して「イベントなどは移住した人が遣っているのだろうか?」と言うと、「コウリンタンポポ、ね」と妻が言った。

 

しかし、陸別の良さは小さい町につきものの「プライバシーの無さ」がここでは無縁である。適当にほっといてくれる。

こちらが求めなければ、「陸別移住を応援する会」に声掛けしなければ、「陸別移住を応援する会」からの声掛けもなく宿を借りているだけである。野尻町長も、移住について、二地域居住について

 質問されなかった。ただ、観光を楽しんでください、と謂うことだった。


 

 通りに飲食店がある。陸別の人はよく利用しているのだろうか?パン屋が無くなった、と言う。食堂が一つあれば事足りる小さな町だが・・・「コミュニティプラザ☆ぷらっと」に「レストラン陸別天地」

 「すし藤」「居酒屋花むすび」がある。町外からくるサラリーマン・役人・森林関係・酪農関係などをもてなす場所として必要だろう。

 

 Aコープで酒の肴を買う。

 

 

 酔った目で写真の整理。

 

 

625日(日) 実際の気温17° /12°

 6時起床。

 今日も薄暗い。

 こんな日は出掛けない。音楽を聴いて日を過ごす。

 

 持参した、倉本聰「ゴールの情景」を読み始めた。

 

 外は雨だがお土産を買いに行くことにした。「果夢林ショップ」で薄荷飴の詰め合わせを買う。妻が、おかしいと言う。前に来た時に、500円くらいと思っていたのに・・・実は私もそう思っていた。

 500円なら安いと思いお土産に買って帰る積りであった。それが、800円で売られていた。私たちが間違って覚えていたのか?店員が間違えて値札を貼っていたのか?それとも、値上がりしたのだろうか?

 

 前に一度食事して美味しかったので、「ファミリーレストランe'f」にて昼食。

 「オホーツク北見塩やきそば」、「ハンバーグドリア」、「おすすめのハンバーグステーキ」を二人で食べる。

 隣の客が出掛けに「お先に済みませんでしたね。私たちが入ってきたときにはもう席に座っておられたのに、店員を呼ばれなかったから遅くなってしまい・・・」と謝りを口にして出て行かれた。そういえば、

 呼び鈴を押さずに客が引くまで待っていた。


 

 道の駅「おんねゆ温泉」から帰り道、道の駅全てで地元の窯元が陶器を売っている、と妻が言った。

私もそれに気付いていた。

美濃焼の美濃市と姉妹都市として提携しているのか、道の駅「ピア21しほろ」に美濃焼が紹介してあった。

全国陶器まつり(全国陶器祭り振興会)が帯広・釧路で開催しているらしい。もう終わったかもしれない。それが成功しているなら、陸別で陶磁器の「ギャラリー落紫舎 陸別」を開店するのはいいことである。

 

 午後3時前に帰り着く。

 空き家を見て回る。

 

 

 

 清水さんは成果を揚げ東京から帰って来ただろうか・・・

 

 「北海道ちょっと暮らし利用ランキング」平成27年度実績1位の釧路の様子を見に行かなければ、と酒を口にしながら思っている。

 午後7時からJリーグ・ガンバ大阪の試合中継があるから、酔って寝てはいけない。雨の夜に素敵な時間を貰っている。それまで、倉本聰「ゴールの情景」を再び読みだした。

 そして、試合が始まるまで写真の整理をする。

 

 

 

626日(月) 実際の気温17° /12°

 何度も灯油ファンが点いた。

 木々が揺れている相変わらずのカーテン越しの朝である。

 陸別の人は風に弱い、という。

 扇風機の風を涼しいと感じるのだが、こちらの六月の風は寒い。

 

 11時になって、「おけと勝山温泉ゆぅゆ」が今月の「ふろの日」だから入りに行くことにした。ポイント5倍、アイスクリーム200円が100円、ビール500円が250円だった。

 

空腹では不味いということで食事を摂ることにした。

隣のテーブルでご高齢の男性がアイスクリームを股の間に落とした。奥さんが慌てて拭いていた。それに気付いた店員が、「床は私が拭きますから・・・」

「ボケ老人だ」

アイスクリームが溶けて股間に染みができ、失禁したと思われると心配したのだろう。

「大丈夫ですよ。本当にボケたなら気付きませんし、そんなことも言えません」と店員が小声で言った。周りは微笑みに包まれた。

 

 ラーメンセット、うどんセットを頼んだ。「ふろの日」だからビールが半額だった。妻に頼んだ。すると、妻が、大好きな推理ドラマを真似て、「保険金殺人だ」「そう思いませんか?」「おまえだって、

 ふろの前にビールを飲むか」「私だって、ビールは風呂上がりに飲みたいと思います」「だろ」「風呂に入る前に飲ませて溺れるか倒れるか狙ったんだ」「これは殺人ですね」

 そう言って妻は呑んだ。

 酔いを醒ますために従業員に何時過ぎれば少しは空きますか、と尋ねて、置戸「オケクラフトセンター森林工芸館」に行く。

 

 白樺の木で作った器を購入する。

 『ギャッラリー落紫舎 陸別』ができたら、程近くに置戸から木工作家を呼んで工房を作ってもらうのもいい。丁度、フードセンターが空き家になっている。あれなら、木工の器械が置けるだろう。

 

置戸駅の、コミュニティーホール「ぽっぽ」に寄り、素人画家の絵を観て1時間ほどして戻ってきた。思い出ノートのようなものに、関東から訪ねて来た人の名前が数名記されていた。『文化の町 置戸』と、

 上手く観光に結び付ければ遠くからでも観光客は来る。


露天風呂に浸かり湯花の浮遊を見ながら、今更ながら野尻町長は私たちに「ちょっと暮らし」の目的をどうして尋ねられなかったのだろう、と考えた。

  

 「やるなら一人でやってください。それなら、私たちは反対もしないし頼まれなければ手助けもしません」

 

 4時半ごろに帰ってきた。

 

 暖かい部屋で炊き立ての「ゆめぴりか」を食べビールを飲む。何の憂いがあるだろう。

 この家で床に就くのも残り4夜だ。

 

 今夜も写真の整理をする。

 

 

 

 

627日(火) 実際の気温19° /11°

 放送で起床。

 早速テレビを点ける。

 藤井4段29連勝、新記録がトップニュースである。すごい中学生だ。私が中学生だった頃、こそこそしていたように思う。あれだけのカメラの前で堂々としている。

 

 「北海道ちょっと暮らし利用ランキング」平成27年度実績第1位の釧路を確かめたかった。

 観光地を検索したが何もなった。釧路湿原と阿寒湖だった。

 写真に収めるには、摩周湖なら私のようなものが撮ってもそれなりに映るのだが、この季節の釧路湿原と阿寒湖は無理だった。冬こそなれば、と思う。

 

 それならと午前10時前に道の駅のスタンプ押しに出掛ける。

 「阿寒丹頂の里」に行く。カネラン峠を少し下ったところに砂利が敷き詰めてあった。「とかちであそぶ観光MAP」に未舗装と書いてなかった。しばらく下るとまた敷き詰めてあった。そしてまた敷き詰めて

 あった。この前に走った時から少しの間に砂利が敷かれていた。タイヤが滑る。


 12時前に着く。「赤いベレー レストラン鶴」で食事をする。昼食時とあって混んでいた。一番人気「阿寒ポーク とろ玉かつ丼」を食べた。

 

 次の道の駅「しらぬか恋問」に到着。砂浜に行く。太平洋だ。妻が、拾う貝殻がない、と歩き回って言う。

 「恋が叶うポスト」。このポストの裏に、思う人に手紙を書いて投函するように、と促すメッセージが書いてあった。

 

 同じ道を引き返して帰るのも芸がない、と言うことで白糠に向かう。自動車専用道路(無料)を行かずに392号・274号線で帰る。浦幌に近づいた山の中で「くりんそう」を見つける。道路の下に沢がある。

 その脇にてんてんと咲いていた。道路脇にも飛び飛びに咲いていた。これだから、脇道を走るのは楽しい。


 

 これに気をよくして、道の駅「ステラ★ほんべつ」で相談して、足寄駅から「もろこし街道」を辿った。

 私たちの後ろに神戸ナンバーの車が続いていたが、余りにゆっくり制限速度で走ることに苛立ったのか追い越して行った。大方、阿寒湖方面の宿に向かって急いでいたのだろう。

 「螺湾」と標識が読めた。このあたりに松山千春が背比べしていたラワンぶき自生地があるのだろう。それなら、松山千春の生家に寄って行けばよかった。

 

 5時前に帰り着いて清水さんに電話をする。着信音が鳴っているが出られない。仕事が混んでいるのかもしれない。いよいよお別れの日が近づいてきたので退去についての取り決めがあるのか教えて

 いただこうと思った。

 

 午後6時前に、わざわざ訪ねてきてくださった。

 玄関先で、これまで日記に認めた事柄を手短に話させていただいた。

 

 見つけていた空き家を思い出す。

 

 

 私の想いを伝えたので今夜は心地良く寝られる。

 その前に、最近寝る前の日課になった写真の整理をする。

 

 

 

 

628日(水) 実際の気温23° /11°

 退去する前に、庭の雑草を刈って綺麗にしておくように、との申し合わせ事項があったが、今朝取決め事項を読み返して知った。庭の雑草は、確認するとそれほど伸びていなかった。

 庭に物干し台が備えてある。

これまで家の外に洗濯物が干してないことに気付き、それを不思議に思っていたが家の中で乾くことを知った。

 妻は、地元では梅雨だと23日でも洗濯物がすっかり乾かないので、また陸別は寒暖の差が激しいと聞いていたこともあり肌着から洋服までたくさん持参していた。

 でも、ただの憂いごとであった。

 夜に洗濯して干して翌日外出から帰宅すると、大抵一日位で乾いていた。そして梅雨というものが内地と違っていると知った。

 

 陸別に惜別の意味を込めて11時頃に散策に出る。

 

 徳冨健次郎『みみずのたはごと』に陸別について書かれた箇所がある。

  「陸別は古来鹿の集る所で、アイヌ等が鹿を捕るに、係蹄にかゝった瘠せたのは追放し、肥大なやつばかり撰取りにして居たそうだ。鮭、鱒、なぞは持ちきれぬ程釣れて、草原にうっちゃって来ることもあり、

   銃を知らぬ山鳥はうてば落ちうてば落ちして、うまいものゝ例にもなる山鳥の塩焼にもいて了まった。たゞ小虫の多いは言語道断で、蛇なぞは人を避くることを知らず、追われても平気にのたくって居たそ

   うな。寒い話では、鍬の刃先にはさまった豆粒を噛みに来た鼠の舌が鍬に氷りついたまゝ死に、鼠を提げると重たい開墾鍬がぶらり下ってもはなれなかった話。」


 

 

 昭和61年 カナダ・ラコーム町と姉妹都市提携調印が成されている。

 

 

 

 

 焼き物の窯があったのだろうか?

 

 道を間違ったところに町営サッカー場があった。蹴ってみたいと思う。サッカーの監督をしていた時、北海道に合宿で来たことがある。その当時珍しかった天然芝コートに憧れて来た。

 

 

関寛斎のことは何も知らない。消防署横の広場に銅像がある。「関寛斎診療所」と名付けられている。陸別にとって特別な人であることはわかる。

 「国指定 史跡ユクエピラチャシ跡」(青龍山)に行く途中道に迷う。

 ユクエピラとはアイヌ語で「鹿・食べる・崖」の意であり、チャシ跡はアイヌ文化期(1318世紀)の砦跡と言われている。

擦れ違えない登り道になった。

一向に、駐車場に出ない。暫くして「陸別配水池」と書かれた建物の前に出る。ここで引き返した。

 

 

太くて長い蛇に出くわした。

 

 

先程の、徳冨健次郎『みみずのたはごと』に「蛇なぞは人を避くることを知らず、追われても平気にのたくって居たそうな。」とある。車が通り過ぎて振り返ると平気にのたくっていた。最前追い越した

 散歩中の老夫婦にまた出会った。


「この間も見物に来られた千葉のご夫妻も間違ってまた引き返してこられましたよ」

立て看板が小さくて判りづらいですね、と言われた通りの看板だった。

それより、「大きな蛇に出くわしましたが、蛇がいれば蝮もいるでしょう?」と聞いた。

「蝮はいませんよ」とはっきり言われた。私の中では同じ蛇なのに、と納得いかなかったが、野尻町長も「蝮はいない」と断言されていた。

 

漸く駐車場に着いて白樺の道を歩き始めた。

此方を見ている目に遭った。

 

 

關寛翁碑文に行き当たった。

(青龍山)から陸別の街を見下ろしているとこちらに向かって三人の人影があった。

陸別の街を眺めようと思ってこられたのだと思ったが違っていた。「この人たちを案内してきたのです」と一人が言われた。関寛斎の生き字引という斎藤省三という方だと後で清水さんに教えていただいた。

 徳富蘆花を通してトルストイ主義に近づき、とあるのだが、私は陸別町の牧場の牛舎?に掲げてある「キリストは永遠の命を与える 聖書」と寛斎が関係しているのか気になっていた。それはところどころの

 牧場に掲げてあった。


 陸別町には立派な本證寺・妙法寺・正見寺・円覚寺が国道242号線に並んで建っている。

 

 

 銀河の森天文台(りくべつ宇宙地球科学館)まで山道を歩き辿り着いたが開館前だった。コマクサが咲いていた。

 

 

 山道を下った。

 

 

退去のため部屋を片付ける。

 

 午後6時、退去のため清水さんが部屋を検める。

 明日、8時にカギを受け渡す約束をする。

 

629日(木) 実際の気温21° /14°

 朝8時、清水さんが来られる。鍵を渡す。813分出発。小樽まで時間を要す。出港に間に合わない事態が起きて乗船できなければ困る。それから、北海道にもう来られないかもしれない、と[道の駅

 スタンプラリー2017]冊子のスタンプ押しのため、予定を一日早めて陸別を去る。


 9時丁度に「道の駅おんねゆ温泉」に着く。

からくり人形が動く。

ショップに行き薄荷詰め合わせの価格を確認する。800円だった。

20分ほど居て、次第に陸別から遠ざかっていく。

 

道の駅「丘の蔵 美瑛」に到着。美瑛駅の隣だった。

 昼食は「カフェレストランおきらく亭」のおすすめ「ポトフ」を食べる。シャンソンが流れていた。

 

 「ラベンダーが見たくて、一週間前に来てもう一度寄ってみたのですが・・・」

 「例年ならもう咲いていますが今年は寒かったのでまだ咲いていませんね」

 「愛を積むひと」のロケ地までの道を尋ねる。まだ観光地としては新しいので地図に掲載されていない。

 ところでこの近くにあった風呂屋はありますか?

 「ありますよ」、と言って店の中から斜め方向を指差した。

 25年程前に美瑛の丘を自転車で廻って汗を落とした風呂屋が建て替えられていた。建て替えたということは美瑛市の街作りに沿ったからとはいえ観光客相手に営業が成り立っているということである。

 「カフェレストランおきらく亭」を2時に出る。店を出掛けに「ポトフ嫌いですが美味しかったです」

妻が、店を出たところで「ポトフが嫌いでなく、ポトフが苦手とか言うの」

 

「愛を積むひと」に使用された石積み塀の家を写真撮影して240分に離れる。

 

 

 ラベンダーを妻に見せたくて「四季彩の丘」にまた行く。

 「四季彩の丘」250分過ぎ到着。

矢張り、ラベンダーは咲いていなかった。外国人で溢れかえっていた。台の上に売り物のトマトが載せてあり、その横に写真撮影お断りのマークと言葉が添えられていた。何で?

15分ほどで「四季彩の丘」を退散する。

道の駅「スタープラザ☆芦別」に立ち寄る。午後4時着。20分ほど居る。

 

 途中、高速無料道路の入り口を入ったところで行先を間違え、また同じインター入り口に戻る。旭川市内を走るのは厭だったから旭川と標識が出ていたので回避した。それが徒になった。

「四季彩の丘」に寄ったために小樽で寿司を食べる時間がないと、予定していた道の駅に寄ることを断念する。

 小樽まで海沿いを走りたかったのだがそれも諦める。

 

 舞鶴からフェリーで小樽に来た夜に泊まったホテルに午後7時前に着く。駐車場に車を預けて1928小樽築港駅発、小樽1934着の電車に乗るため急ぐ。

 

 小樽駅からそちらの方向に向かって歩き出した。妻は大人しく付いてくる。また来るとは思っていなかったので、店の名前もうろ覚えだった。道行く人に聞こうと思っても尋ねることができない。店は寿司屋通り

 から外れていた。

見当をつけて路地を歩いていると昨年も来た「魚真」を探し当てた。カウンターに案内された。8時半オーダーストップだと言われる。隣の二人連れの女性客が寿司を三貫残して店を後にした。何故だろう?

 気になった。それは、食べてみて分かった。観光客を相手にしだすと地元の人は離れ、味は確実に落ちる。

 

 2137小樽駅発 2143小樽築港駅着でホテルに帰り着いた。

 北海道最後の夜である。

 写真を見る。フォトブックの表紙を飾る一枚を700枚近い写真から探す。そう思って見始めたが長距離移動の疲れが出て、満腹で、酔いも手伝い眠りに落ちた。

 

 

 

 

630()  実際の気温23° /15°

 今夜11時半小樽港出発だからとゆっくりと朝食を摂る。外国人客に交じって日本人客がそれでもちらほらといる。

 食事のマナーが悪いと思っていたら日本人だった。

 肘をついて食べる。テーブルの下で足を組んで食べる。箸を持ったまま携帯電話を使用している。食べながら飲みながらテーブルの間を通って席に戻る。喋りながら話し相手を箸で指す。

 

 9時過ぎにホテルを出る。

 最後の道の駅「スペース・アップルよいち」に向かう。施設内には余市宇宙記念館がある。

 着いてみるとニッカウヰスキー北海道工場余市蒸溜所の隣だった。

 道の駅に併設されている小さな物産店で、昨年お土産として買ったチョコレートでニッカウヰスキーを包んだウイスキーボンボンのような製品がなくなっていた。店員に尋ねると、ウイスキーが品薄で

 今年の春が最後でもう作っていないという。ないと分かるとほしくなるのが人情である。


 

 ガイドツアーに参加する。

 天使の分け前=エンジェルシェアとはいい言葉である。

 昨年と説明が少し違う。ガイドがそれぞれに工夫して伝えようとしているのだろう。ニッカウヰスキーのニッカの由来、何故ウイスキーをウヰスキーと書くのかなど新しかった。同行者の中に的を得た質問を

 される方がおられてガイドの答えに聞き入った。ガイドがその質問に的確にこたえられるのに気持ち良かった。質問も重箱の隅を楊枝でつつくような質問でなくてよかった。「研修中」のバッチを付けた新人

 ガイドだった。


 妻が、昨年も聞いたのでしょう?と言ったのだが、「教師によって屯田兵が等しく説明されることはない。それぞれ違う」と言ったら納得していた。

 

ガイドツアーの最後は試飲だった。

私の胸に「運転手です 飲めません ハンドルキーパー ニッカウヰスキー余市蒸留所」シールが妻の手で貼られていた。

3種類のお酒が用意されていた。

竹鶴ピュアーモルトウヰスキー、スーパーニッカウヰスキー、ニッカアップルワインであった。

窓際の席が丁度空いた。

妻はそれぞれの美味しい飲み方を見ては席を立って水・氷・炭酸水をウヰスキーの入ったグラスに注いで席に持ち帰り買ったつまみを肴にして「美味しい」を連発していた。

「おつまみを食べながら試飲できるなんて、長居しちゃうじゃないの、いいんですかね、いいんです、NIKKA」と誰かの口調を真似て飲んでいた。

窓の下には赤い花、コウリンタンポポが群生していた。

隣は外国人の男性二人連れだった。この二人は有料の試飲バーでも飲んでいた。大きな声は出さないが酔いも手伝っているのか笑みがこぼれていた。

私たちの後ろのテーブルに腰掛けていた中国人のグループは賑やかだった。

 

「美味しいね」を「ひよっこ」の茨木弁を真似て妻はまた言った。「お代わりできたらいいのにね」

 昨年はそうだったように覚えている。一種類一杯きりでなかった気がする。「※蒸溜所では、見学後にウイスキーなどの無料試飲(お一人様2杯まで)が出来ます。」であった。

 

 ブレンデッドウイスキー「鶴」17年・シングルモルト余市10年・アップルワインの三種類の試飲が日によってあるそうだ。

 

 私はもう少し敷地内の建物など撮影したかったのだが、すっかり気分良く酔ってしまった妻がもう充分と言ったので小樽に戻る。

 

 

 小樽で妻がどうしても行きたいと言ったのは「ヴェネチア美術館」と、買い忘れたお土産を買うための「六花亭 小樽運河店」だった。

 駐車をどこにするか?悩んだ。その辺りに格好の駐車場がない。夜10時まで駐車するのだから料金が半端でない。「タイムズ小樽堺町」駐車場は1時間800円である。フェリーターミナルの駐車場に停めた。

 そこから歩いた。

 

 ダイアナ妃も乗ったという国賓用の貴重なゴンドラが展示されていた。「ガラスの水族館きらめく 海のファンタジー」という特別企画展があった。ヴェネチア、ムラノガラスペーパーウエイト・ウェイトが

 欲しいと思ったが陸別の生活振りを想うと取り立てて必要と思われなかった。

 

 夕食に寿司はもういい、と言うことで店を彷徨って探した。ところが6時でほとんどの店が閉まってしまう。そういえば寿司屋も9時で閉まる。北海道の人はせかせかと働かない。「食べていければいいっしょ」


 探しあぐねて漸く、「契約農家、小樽漁港からの食材を活かし、小樽ならではのイタリア料理を提供させていただきます、『ぴあっと』」で夕食にありついた。「小樽生ワインボール」を妻が呑む。「気まぐれ

 サラダ」を妻が食べる。「ペスカトーレ」なるものを妻が食べる。

 

 コンビニエンスストアーで北海道限定生ビール「クラシック」を買う。小樽を発つとき、二人でお酒を呑みましょうね♪である。

 

 フェリーターミナルにメルヘン交差点から歩いて戻る。

 

 夜1130小樽港を定刻通り出航する。

 出航するとき汽笛が昔は鳴った。それで寂しさが募ったのだが、鳴らなければ鳴らないでまた寂しい。

 

6月16日から30日までの後半日記です。

2017年8月3日(木)

  ゴールデンレトリバーの「タロ」が二年前に亡くなって庭が荒らされるようになった。

                        冬に荒らされた庭  家の裏の畑

  同行しているのか、花の苗、アジサイの芽・葉、柿の葉等を鹿が食べ尽くした。

  夜中に崖下に向かって吠えている「タロ」をよく叱ったのだが、獣を追い払っていたと今になってわかる。

  猛暑日が続くがお盆が近付くので荒れた庭をそのままにしておけず冷茶を飲みながら直す。

  腰が痛い。石をひっくり返しミミズを食べているのだろうか?仰向けになった石を元に戻すとき痛めたのだろう。

  家庭菜園が荒らされた、庭が荒らされた程度では市役所は動かない。生業に関わる被害を蒙っているところがたくさんある。害獣を駆除する箇所はそちらが優先する。聞くところによると駆除した害獣を

 保管する冷房施設が満杯になっているという。「ジビエ料理」と言って鹿を

  消費しようとしているようだが、北海道と違い食べる習慣がない。猪の「牡丹鍋」はご馳走であったが食べる機会が減った。

  犬を飼うか、柵を拵えるか、何とかしなければ直す度に腰が痛くなる。

2017年7月26日(水)
スズメバチの襲来

  しばらく留守にしていたので伸びていた草花を刈っていると両手の甲を刺された。悪戯した手の甲をつねられたようだった。

                        

  首を刺されなくてよかった。

  治療してもらおうと病院に行くと、「刺されて15分以内に来ないといけません」と言われた。

  刺されてから4時間ほど経っていた。ますます腫れて痛みが増してきたので治療してもらいに行ったのだが、痛みを鎮める特効薬はない、

 それで痒み止めの軟膏を貰ってきた。痒み止めと思ったが、痒みを伴った痛みが続いた。

  それからしばらくして腫れも痒みも収まったころに友人に出会った。

  「首を刺されて、病院に向かっていると視野が狭くなってきて、車を道端に停めて歩いて行った」、と話す。

  4回目だという。医者が、「今度は絶対に救急車を呼んで来てください」と言ったという。

  「蜂に刺されて救急車を呼べるか?」

  大袈裟だというのである。田舎だから物笑いの種になるという。多分、昔蜂に刺されて死んだのはこういうことだろう。

  医者は帰り際に、「次は絶対に救急車を呼んでください」と、渋っている私に念を押した。

  蜂の巣は伏せた植木鉢の中に作っていた。市役所に電話すると、防護服を貸し出すから自分で駆除してくださいという。防護服はフリーサイズだという。

  朝駆け夜駆けというらしい。朝5時に防護服に身を包んで私が駆除する。太った息子は防護服が着れないという。頭巾が被れないという。

 「二度と刺されないように」と医者が言ったのに私がする。

  それまで、玄関脇に巣を作っていて刺されなかったのは、蜂の領域を侵さなければ共存できた証である。周りの国が慌ただしい。領域を侵さずにいれば痛みを蒙ることなく共存できるのだが、そんなに難しい

 ことだろうか?防護服を脱ぐと、汗びっしょりだった。

  スズメバチの死骸が転がっていた。

2017年7月7日(金)
I went to Hokkaido on vacation.6/1~6/15


陸別町ちょっと暮らし

 

201761()  実際の気温19° /14°

 昨日、5310030フェリーで舞鶴港を発ち、2045小樽港に着き、その日は小樽に泊まり、朝食を早々に済ませ、0830に陸別に向かう。

 小樽から足寄まで高速道路で向かう。

 

 足寄町の道の駅「あしょろ銀河ホール21」に寄ったが、松山千春が蕗と背比べをしているポスターを眺めただけで昼食をとらずに陸別町役場に向かう。豚丼に心ひかれたのだが・・・

 それにしても、「足寄高校」の生徒募集のポスターは衝撃だった。

 


 

 1330頃、町役場に到着。1500頃に到着予定だったが早く着いた。

 絵になる役場庁舎だ。2階の総務課に向かう。

 「陸別町ちょっと暮らし住宅定期賃貸契約書」の締結押印をいくつかして「ちょっと暮らし」の生活が始まった。

 

 「丁度、町長が在席しております」と移住窓口担当の清水さんに促され町長室に入る。その町長室に向かう途中で上司の請川さんを紹介していただく。総務課長の早坂さんは職員と打ち合わせ中であったため

会釈だけで済ます。


 

 野尻町長が水と星が綺麗だ。水はペットボトルに詰めて「陸別百恋水」として販売している。「星が綺麗で、天文台からの眺めは感動しますよ。館長はオーロラについては権威の名古屋大学の方です」

 「酒好きの友人に一度星を眺めながら飲んでみろ、忘れられなくなるぞ、と言って誘ったら、酒はどこで飲んでもうまい、と言っていたのが星を眺めながら飲んで一度に虜になりましたよ」

 熊は出没しない。蝮はいない。地震がない、だから温泉がない。

 「陸別町の良さを楽しんでいってください」、で面会は終わった。

 

 清水さんが「東一条ちょっと暮らし住宅」を案内してくださり、「特に、ごみの分け方・出し方は戸惑うことがあると思います」ということであったが、後日本当に夫婦で思案した。

設備などの説明を受けたあと町内を案内してくださるということで清水さんの車に夫婦同乗させていただき廻った。56分で廻れる小さな町だ。

 雨が降り出した。

 荷物を早く運び入れなければ、と思うものの雨脚がさらに強くなった。「北の国から」というテレビドラマで、畑の土が流される豪雨の場面を思い起こした。

しかし、しばらくして雨脚が弱くなったので荷物を運び入れた。

部屋が温まっていた。

出かけるときについていなかった灯油ファンヒーターが18度に設定してありそれを下回ったため自動点火して部屋を暖めていたのだった。換気も自動にされる。妙にうれしかった。贅沢な気がした。

今夜の食事のため、午後6時まで営業しているAコープに歩いて出掛けた。

レジ袋が5円した。金賞「ゆめぴりか」米を奮発して買った

「買い溜めに北見市まで出かける人が多いです。それで、冷蔵庫が小さいといわれる方がおられまして・・・」

 ゆっくり風呂に浸かり一日を終えた。

 

62()  実際の気温20° /9°

 朝から雨。

 持ってきたミニコンポシステムで音楽を流しながら日記を書いている。

 妻はごみの分別に奮闘している。

 

 時間が来たのでNHK連続ドラマ小説「ひよっこ」を妻が観だした。

 多局の番組が見られる。昔からこうだったのだろうか。デジタル放送のお蔭だろうか綺麗に映る。

 「晴れたら山菜採りに行きたいね」と妻が言う。

 

 昨夜、Aコープで買ったサンドウィッチの包装セロファンに付いていたマヨネーズなどの汚れを落としてから、「プラスティック」に分別しなければいけないのか、妻はしばらく悩んでいた。

 役場に電話をしようか、とも言っていたがしまいに洗って乾かしてから「プラ」に入れることにした。それで、踏ん切りがついたのか、霧雨の中夕飯の買い物を兼ねて図書館に行こうと言った。

 公民館は図書館を兼ねていた。

 陸別町町民文芸誌「あかえぞ」を手にとってぱらぱらと拾い読みした。

 

 

 「オーロラタウン・陸別」に立ち寄った。初老の夫婦が二組いた。

 「幸せの黄色いハンカチ」の陸別駅前のシーンのスチール写真が飾ってあった。

 農協で野菜を買いたいと妻が望んだのだが、雨を含んだ風が強くなり傘を揺らすので、またもAコープに行った。

 「フライパンはありませんか?」

 「陸別に金物屋がありませんから・・・」

 帰り道、下校中の児童から「こんにちは」と挨拶を受けた。

どの家にも花が咲いていた。

高山植物の「コマクサ」が咲いているのに女子大の山岳部だった妻は興奮していた。他の植物が生育できないような厳しい環境に生育することから「高山植物の女王」と呼ばれている、と教えてくれた。また、

コマクサは、数ある高山植物の中でも人気
No.1で花を愛でる登山者にとって憧れの花である、という。花言葉は、「高嶺の花」で「陸別の寒さは本物ね」と妙に声が上ずっていた。そして、庭に「こまくさ」は

贅沢だという。


 

 


 

63()  実際の気温13° /8°

 6時起床。

小ぬか雨。肌寒い。妻が「勿体ない」と就寝前に灯油ファンの電源を切っていた。

 コーヒーを淹れて、パンを焼いて、バターを塗ってレタスとハムを載せて朝食。在り来たりだが、美味しい。

 10時過ぎ、足寄町に向かう。妻が楽しみにしていたのは「花をめぐる」旅だった。

 「鹿の飛び出しに注意」この看板があるところは車の速度を落としてください。

 鹿と衝突したところで、もともと鹿の通り道だったのです。そこへ道路を引いたのですから。朝方、夕方は注意してください、と説明を受けていた。

 「鹿の目はかわいい」と野尻町長が仰っておられたが、動物の目はかわいいが人の目でいやな感じの目は確かにある。

 

里見が丘公園の芝桜を見に行くことにした。「公園内にはツツジ1万本、桜1,000本が植えられているが、名物はシバザクラ。」と、日本観光振興協会(※掲載されている情報や写真については最新の情報

とは限りません)の説明があった。「第36回足寄ふるさと花まつり」が先週の日曜日に行われていた。

 道に迷った。足寄高校の前に出た。落ち着いた佇まいの中に在った。

 行き止まりだった。引き返して家に入ろうとしている主婦に道を尋ねると「見頃は過ぎたかしら?最近見に行ったことがないので」

 案外、いつでも見られる人は見に行かないものだ。見頃は過ぎていた。先週、30度近くの日が続いていたせいかもしれない。

 

 足寄駅を写真に収め、その裏のストアーに寄った。

 ついに、フライパンとバターナイフを買った。

 鮮魚を売っていたので、礼文と貼られた「ホッケ」を買った。地元で買う値段の三倍していたが、冷凍ものしか知らないので食べてみたかった。

 

 次に、上陸別の三好さんのつつじ園を観に向かった。

 だが、上陸別に入ったところで道を間違えた。それで、風が強く、震えながら見るのもどうかな、ということで帰ることにした。

 

 

 日課になりつつあるAコープ行は止して「ホッケ」を焼いて日本酒を飲んだ。

 「肴は炙った烏賊でいい♪」ではないが、町長が好きだと仰った「盃とぐい呑み」はないけれど、一つのガラスコップと一匹のホッケと二膳の箸で心地よく酔った。

 今夜は冷え込むからと灯油ファンの電源を切らずに寝床に入った。

 

64日(日) 実際の気温12° /7°

 7時の時報の放送で起床。

 窓の外は、濡れはしないがそぼ降る雨。

 妻は手持無沙汰で念入りに部屋の掃除をしている。

 手持無沙汰と言えば、陸別町に来てから朝刊を読んでいない。新聞を読まなくてもテレビがあれば事足りるのだが、何とはなしに気が紛れない。

 

 雨読の日になった。気温7度と報道している。

 

 シーニックバイウェイ北海道という冊子に掲載されている、十勝シーニックバイウェイの「緑のトンネル」を雨のなか走りたいと妻が言い出したので午後であったが出掛けた。

「園内には、16,000株のエゾムラサキツツジと2,000本のエゾヤマザクラがあり、春には一斉に開花する様子は見ものです。」とあったので本別・義経の里に立ち寄った。

だが、見頃は過ぎていた。

池田町に向かった。「晴れたらいいね♪」、本当にそう思った。

「緑のトンネル」が池田町、豊頃町、浦幌町のどこの道だか分らなかった。

池田ワイン城に立ち寄った。

「苦戦していますよ」と野尻町長が言われた通り、肌寒いから敬遠されているのではないくらい客が少なかった。

地元近くに、丹波ワイン、天橋立ワイナリー、神戸ワイナリー農業公園神戸ワイン城とある。各地に競合するワイナリーが増えたせいだろう。

 

足寄駅裏のストアーに寄り靴ベラを探したがなかった。午後8時前に帰り着いた。勿論、Aコープは閉まっている。

 

 


 

65日(月) 実際の気温17° /8°

天気予報通り、薄ら曇りから青空へと移っていった。

「北見フラワーパラダイス」に9時半頃向かった。

 フラワーパラダイスは、北見で種苗店を営んでいた大西米吉が私財を投じて造成開始からおよそ6年の歳月をかけて1973年(昭和48年)に開いた花園である、という。

入場無料だった。受付の方が「京都からですか?わざわざ遠いところからよくお越しくださいました。ゆっくりしていってください」とナンバープレートを見て言われた。

ただ、残念なことに桜とつつじは花の時期を過ぎていた。

 

「置戸 勝山ゆうゆう温泉」に行くにはまだ早いので「薄荷記念館」に寄った。だが、休館だった。兵庫県出身の人が薄荷を栽培した、と知った。薄荷を思いついた経緯を知りたかった。その昔、薄荷の匂いが

北見の街を覆ったことだろう。


「道の駅 温根湯(おんねゆ)温泉」に行くことにした。

空はこれまでと違って澄み切った青空であった。

道の駅の窓口で妻が「花が咲いている場所はありますか」と尋ねると、窓口の女性が「花の端境期ですね。五月下旬で春の花が終わり六月中頃から夏の花が咲き始めます」

それでも、折角だから「花公園 根々の丘」に行くことにした。その前に、遅くなったお昼を「手打ちそば すゞき」で摂ることにした。

妻が「とろろそば」の食べ方を尋ねた。

地元では、とろろが椀に入っていて好きな量だけ出汁に浮かべてそばを付けて食べるか、最初からとろろがそばに乗せられていてそこに出汁をかけるのだが、既にとろろが出汁に溶いてあった。

人の良さそうな店主に「そばを漬けて食べてください」と教えてもらった。普通の出汁は別の椀に入れてあった。

 

入館者が減少しているという、「北の大地の水族館 山の水族館」に入った。

テレビ・雑誌などで紹介されて入場者が増加した時代は過ぎ、苦戦する時が来ていた。

ただし、「北の大地の水族館には、日本最大の淡水魚であるイトウの中でも最大級の大きさである1メートル級に育ったイトウが40匹も飼育されています。これは、日本で最多の飼育数です」、イトウを見る

価値はある。でも、淡水魚に興味なければ一度でいい。

 

 


 

「花公園 根々の丘」を訪ねる。見事な花の端境期であった。一本の花も咲いていない。

 

「おけと勝山温泉 ゆうゆ」に着いたのだが車で一杯だった。

妻は二度の手術をしているため人前で肌を見せるのをためらう。平日で空いていると思ってきたのだが、五時を過ぎて車が次々とやってきた。

 

住宅に帰り着いて散歩に出た。

ガレージに45人集まって、ガレージスナックが開かれていた。声を掛けられるかと思ったが会釈をして通り過ぎた。

 

 

 

町外れの空き家を探した。

風呂から上がりガレージスナックとはいかないが妻とふたりでお酒を飲んだ。散歩したためか寝入りが早かった。

 

 

66日(火) 実際の気温15° /7°

 目覚めていても、7時の放送が流れるまで床の中にいて、放送が流れれば起きるのが約束事になっていた。

オンネトーに行くと昨夜から決めていた。

 37年前の新婚旅行に携帯したガイドブックと地図を今回も携えていた。


 その地図に従えば足寄まで出てそこからオンネトーに向かうことになる。

 だが、そのガイドブックにない道、国道143号線を進んだ。砂利道になった。カネラン峠の標識に出会った。

 

 「鷲足商店」の看板の建物が目に入り少し行き過ぎて引き返した。

 前歯一本のお爺さんの後を黒猫がついて歩いていた。話を伺うと、「昭和七年に建てられ、その頃は立派な建物と言われてのう、一階は車庫、二階は部屋で、運送業(タクシー・トラック)をしておって運転手の

宿舎を兼ねておった。軒下一面にあるのはツバメの巣で、スズメが宿にしたためにほとんど壊れてしもうたが、まだ巣がしっかりしていたころは写真を撮る人が多かった。農薬を被った虫を食べた雛が、ある朝

軒下一面に落ちていての、親鳥はそれを見て虫を食べなったのか無事だったわい。でも、それから一羽も軒下に来ん。あれは人間も危なかったのう」

 

 


 

 「老いた・大きな沼」オンネトーに向かった。

 ここで思わぬ出遭いがあった。ご近所に住むご夫婦に出会った。

 京都とはいえ日本海に程近い片田舎のご近所が、何の約束もせず旅程も知らず出くわすとは言葉にできなかった。

 「縁ですね」と出会ったご夫婦の奥さんが声を引いて言われた。

 広島からのご夫婦が「広島の自宅から舞鶴港まで6時間。フェリーで528日に発ち、小樽で車中泊して、今回の北海道旅行は美味しいものを食べる旅にしたくて宿泊代を浮かしています。先程、遊歩道を

一周してきたのですが、迷子になりそうでした。途中、倒木で道がふさがれていて整備されておらず人の足跡を辿ってきました」

 釧路市立共栄中学校生徒の挨拶を受けながら「湯の滝」に向かう。熊が出たという情報で札幌から来た人は行かないという。「湯の滝」の入り口で準備しているご夫婦に「観光地だから大丈夫、誰がそんなこと

言うのですか」と叱られた。

 滝は二つあるのだが奥の滝は立ち入り禁止だった。

 釧路市立共栄中学校生徒と出入り口で再び出会った。この日、3年修学旅行 ・2年宿泊研修・1年社会見学らしい。何年生が来ているのか知らない。

 

 


 

 「摩周湖」に向かった。37年前の新婚旅行で訪れた時、一度目は霧に覆われて見えなく、翌日訪れた時は霧が一瞬晴れて見えた。

 その前に、37年前のガイドブックに印を入れている「双湖台」に寄る。人気がない。シーズンなると賑わうのだろうか・・・

 麓の「道の駅 摩周温泉」に立ち寄る。設置されたテレビ画面に映りだされた摩周湖は晴れて綺麗に見える。第一展望台に赴く。再び夫婦で訪れることができたことは普通の出来事でない気がする。妻が二度も

手術していることを思えば尚更だった。


 

 

 美幌峠を通って帰ることにした。もう一度美幌峠に立ちたかった。道の駅「ぐるっとパノラマ美幌峠」に来た。

 屈斜路湖。ぐるっとパノラマと名付けるだけあって目の前は広い。「摩周湖」もそうだったが、人間の小ささを知らされる。

 

 


 

 午後7時半に帰り着く。

 


 

 空も晴れて気持ち一杯遊んだ。今夜はぐっすり眠られる。

 

67日(水) 実際の気温18° /6°

 7時の放送で起床。

 昨日、オンネトーで出会った広島からのご夫婦の勧めで網走の居酒屋に行くことにした。

 金に糸目をつけず贅沢な食にありつく、そういって紹介されたのが網走の居酒屋だった。

 

 昼をそこで食べて夜のサッカー日本代表戦を見ることにした。試合開始の午後720分にはテレビの前に酒と肴を用意しておかなければならない。

 

 出掛ける前に「ひよっこ」を見てから旅支度を整えるのが段取りとなっていた。

 だから、9時過ぎに出発となる。目的は教えられた食事処だが、妻が購入した[道の駅 スタンプラリー2017]冊子にスタンプを押すのがもう一つの目的に何時しかなっていた。

 道の駅「メルヘンの丘 めまんべつ」に行く。妻は美味しい野菜が食べたいとアスパラを購入する。それを車に積んで走るという。「保冷剤を入れてもらったから」と安心している。

 メルヘンの丘を写真に収める。「没蹤跡」とは足跡を残さない生き方らしい。オンネトーで出会った何組かのご夫婦がそう仰った。流行っているのだろう。

 

 セルフガソリンスタンドは初めてだったが、店の小母さんに給油してもらう。これなら、普通のガソリンスタンドと一緒だった。その小母さんに「気温が低かったので東藻琴の芝桜公園がまだ見頃ですよ」

と教えられた。事前に妻が調べて「今年の芝桜まつりは
6月4日(日)で終了致しました」とのことだったので大変喜んだ。

 だが無駄足だった。最早、入場無料になっていた。

 

 道の駅「はなやか(葉菜野花)小清水」に向かう。

 「原生花園」と妻が催促する。37年前に来た時も、これが花園?と思った。他の観光客も首を傾げいていた。案の定、端境期か、何も見る花はなかった。ただ、散策路などは整備されていた。「花が少なくなった

のは馬を放牧しなくなったから、馬が雑草を食まなくなり花が育たなくなった」と老人が教えてくれた。馬は花を食べないらしい。

 

 

 

 午後2時頃に着いて居酒屋で昼食を摂るつもりでいたが、居酒屋の前に道の駅「流氷街道網走」に寄って行くことにした。そこで、網走の食事処を見ると、居酒屋は午後5時からだった。居酒屋が昼から

空いているわけがない。道の駅で食べなければ、サッカーの試合開始に間に合わない。


 中島みゆきが北海道出身だと知っていたので、「ばかだね、ばかだね、ばかだね あたし(化粧)♪」と歌いながら帰ってきた。

 

 日本代表戦は詰まらなかった。撮影した写真を見てから床に就いた。

 

 何だか無駄の多い損した気分になっていたため中々寝付かれなかった。

 

 

68日(木) 実際の気温17° /12°

 7時、放送で起床。

 今日は休息日。

 妻も私も日記を書く。

 一歩も外に出ない。そう決めたものの葉書を出しに行こうと思い身支度して外に出たが、いきなり雨粒が。それで、再び閉じこもる。

 


 

 貧しい朝・昼・夜食となった。それでも、酒と肴はある。

 

69日(金) 実際の気温21° /13°

 何時もの放送がなかった。今か今かと待っていたが、おかしいと思い寝床から出ると8時半だった。

雨の予報だったが、次第に晴れてきた。

 

 

花は端境期だから、「十勝 千年の森」に行くことにした。

快晴。高速道路を使った。三時間を要する、とあった。

昼過ぎに着いた。十勝は酪農の町らしく方々に牛が放たれていた。

職員に順路を尋ねた。今日は青空だから「千年の丘」まで上るといいですよ、その前に食事をされてはいかがですか、と園内の「ガーデンカフェラウラウ」を紹介されてそこでパスタとピッツアを食べた。

ファーム・メドウ・ローズ・アースの各ガーデンを巡り、「千年の丘」を登った。日差しが強い。頂上に日陰がなかった。

早く日陰に入りたかった。丘を下ってフォレストガーデンを歩いた。

またファームガーデンに戻ってきた。「花の見頃はいつですか?」と妻が尋ねると、若い職員が作業の手を止めて「七月初旬ですね」と答えて、「観光バスで来られますから混雑しますけど・・・」と付け加えた。

ゆっくりと花を観賞するにはどうすればいいのだろうか?花の命は短い。とすれば、一時に、鑑賞時間も短くなる。

 


 

妻の、花ともう一つの目的になった[道の駅 スタンプラリー2017]冊子のスタンプ押しに付き合わされて道の駅を巡って帰途に就いた。

道の駅「おとふけ」でアイスクリームを食べる。

道の駅「ピア21しほろ」は午後6時を過ぎていたためスタンプを押せなかった。

それから、近くに来たからと映画とテレビのロケでよく使用される「十勝牧場 白樺並木」に立ち寄った。

「白樺は若い木がやはり綺麗ですね。これまで車窓から見た細くて白く伸びた肌をした白樺は綺麗でしたね」

ここの白樺並木は樹齢寿命の40年を超え、5080年に達しているらしい。それで、痛んだ白樺は伐採・抜根し、そのあとに植栽する。

 

 

道の駅「足寄湖」は閉鎖されていたがスタンプは押せた。「もったいないね」と妻が言う通り、チーズ工場と並んで絵になる佇まいだった。

 


 

糠平国道から分かれて芽登までの足寄国道は真っ直ぐで気持ち良かった。

足寄駅裏のスーパーで買い物をした。陸別のAコープは6時に閉まってしまう。

 


 

 買ってきたお惣菜で夕食を済ます。

 食べながら「酒のおつまみと変わらないね」という。

 

610日(土) 実際の気温16° /11°

 枕元に時計がないから何時だかわからないのだが花火が上がった。運動会を決行するとの合図だ。曇りから雨、の予報だった。

 

 住宅の下が陸別小学校だった。歓声が聞こえる。

 


 

役場の清水さんのお子さんがお二人在校だということで今日は大忙しの一日になるだろう。在校生は100人程度、一学年に15人程だということだった。小学校・中学校の給食費は全額補助される。

今日は雨になると思っていたのでゆっくりしようと思っていたのだが、こんな日こそ温泉だ、ということで日帰り入浴を調べ尽くして「しほろ温泉 プラザ緑風」に行くことにした。

 11時頃に出発。

 近くの温泉をいろいろ調べたのだが、有名観光地にある日帰り温泉は、土曜日ということもあり1,500円ほどした。それが、「しほろ牛すき焼き定食+入浴」で1,300円だった。

 65歳以上は350円の入浴料だった。とろりとした湯だった。

 

 そして、妻の目的になった[道の駅 スタンプラリー2017]である。

 道の駅「ピア21しほろ」に先ず行く。賑わっていた。ピア21しほろ名物の「生産者還元用ポテトチップ」を購入した。そして、やはりソフトクリームを食べなくして何が北海道だ、ということでここでは

「バニラとごま」のソフトクリーム。ゴマソフトがうまい。


 次に、昨日の足寄国道も真っ直ぐだったが、国道274号線の16キロメートル続く直線道路を走って、道の駅「うりまく」に行く。

 乗馬が体験できる珍しい道の駅だった。冷凍「にくじゃがまん」を買う。

 雨が激しくなっていた。雷も鳴る、と妻が天気予報で言っていた、という。

 

 道の駅「しかおい」に行く。

 水槽にチョウザメが泳いでいた。聞くとチョウザメの飼育に成功したとのことである。

 「あのキャビア?」と妻は驚いていた。そのキャビアである。

 

 ワイパーを最速で動かしても前が見難い。ほとんどの車がライトを点けている。すれ違う車の飛沫が掛かる。「十勝 千年の森」に行ったのは昨日である。これだけ天気が変わるとは驚く。

ようやく雨が小降りになってきた。道の駅「足寄湖」の写真を撮る。

道の駅「あしょろ銀河ホール21」で閉店間際にスタンプを押す。

6時半頃に帰宅。陸別小学校に人も車もパラソルも無かった。静かな校庭だった。

 

 


611日(日) 実際の気温18° /8°

 7時、放送で起床。

冷たい雨。灯油ファンが点火する。気温、最高18度。

休息日。

日記を書く。

清水さんが美味しいと言われた蕎麦を食べに行こうとして外に出ると冷たい風。慌てて車に換える。だが、休み。郵便局のATMも午後二時まで。道の駅「オーロラタウン93りくべつ」に行ってみる。

観光客が訪れていた。その中には、宿泊施設のオーロラハウスを利用する人もいるようで、二階のフロントへの行き方を尋ねていた。

りくべつ鉄道駅に入場無料とあったのでプラットホームに出てみる。係の女性が、いろいろと説明をして下さる。「平成18年4月21日、明治43年国鉄網走本線開通(池田陸別間)から95年間走り

続けてきた「ふるさと銀河線」が廃止されました。その2年後の平成20年4月20日、今度は観光鉄道として「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」に生まれ変わりました。陸別駅構内では、銀河線で活躍した

列車の「乗車体験」や実際に運転できる「運転体験」、足こぎ式の「トロッコ」に乗ることもできます。」と・・・


それで、「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」に乗車できるのは何時ですか?と尋ねると、特別な日しか乗車できません、と言われた。詰まり、週一回とか、夏の観光シーズンに運行しているわけではなかった。

これでは鉄道ファンしか乗らないことになる。


 

 

それより気になったのは「幸福の黄色いハンカチ」でロケした陸別駅のスチール写真がなくなっていた。それを写真に収めたかった。妻に見せたかった。

 

陸別町のパンフレットで確かめると日曜日は全ての店が休業日だった。勿論、Aコープも休み。

コンビニストアーが大繁盛していた。

住宅に戻ると灯油ファンが燃えていた。京都の気温は何度だろう?晴れ、23度だという。

 

こんな日は酒を呑んで眠る。

 

612日(月) 実際の気温17° /7°

陸別町の家の庭の花を見て、「礼文アツモリソウが観たい」

 


 

妻の一言で、820分過ぎに出発。

 「道の駅」を巡って午後6時半頃に稚内に到着予定であった。

 「かみゆうべつ温泉チューリップの湯」→「オホーツク紋別」→「おこっぺ」→「おうむ」→「マリーンアイランド岡島」→「さるふつ公園」→「わっかない」

稚内「天然温泉天北の湯ドーミーイン稚内」に宿泊。

夕食の前に、ウォーキングシューズが必要だと「ハセガワスポーツ店」で購入する。ホテルのフロントで聞いた通り、商店街は殆ど閉まっていた。この「ハセガワスポーツ店」もシャッターを下ろそう

としていた。店の奥は電灯が消されていた。

「どちらに行かれるのですか?」

「礼文島です」

「礼文なら大丈夫です」

店の主人は、私の足元を見て大丈夫だという。商売なのに売ろうとしない。すると妙なもので買ってしまった。それも、店主が勧めたのは特価品であった。

 

 ホテルの目の前にある居酒屋に入る。冷凍品は使わないという。明日は礼文島の宿で新鮮な海鮮が食べられるということで当たり障りなく鶏肉を食べた。

 計算が合わない、と妻が言う。それは、娘からの電話で分かった。

 居酒屋は席料を取る、という。

 内地で有名な日本酒・焼酎の一升瓶が並んでいた。

 私は外で呑むとき渋くなる。酒だけでなく珈琲などもそうである。場所・手間・人件費込の料金に渋くなる。容易く原価で手に入るものを拒む癖がついた。

 

 ホテルに戻り最上階の露天風呂に入る。夜風が冷たい。

 大浴場などと書かれた温泉に入るとき妻の手術跡を思う。まばらな湯客であればいいのだが。

 

613日(火) 実際の気温18° /5°

 朝4時。陽がさしている。眩しい。起きてしまう。

 朝風呂に入る。露天風呂から眺める空は澄み切っていた。

 

  朝食は5時半から食べられる。フェリー「稚内→香深」の始発が0620のため、昨夜フロントから団体客がそれに乗船するため食堂が込み合います、と告げられていた。団体客が朝食を済ませたあと、

7
45分頃食堂に降りて行った。

 

宿泊者しか車を停められない、ということで「道の駅 わっかない」の駐車場に停めた。1105発のため、ゆっくりとフェリーターミナルに歩いて向かう。

待合所の椅子に腰掛けて待っているが一向に込み合わない。当日の二等席でも切符が取れた。なのに、一等席ラウンジを予約していた。無駄をしたのだろうか?

 


 

1300香深港着。

 

宿は2時から受け入れることになっている。港からゆっくり歩いても15分だ。男性二人も早く着いてしまって申し訳ない、と謝っていた。フェリーの到着時間に合わせて受け入れ時間を早められないのか、

いろいろと事情があるのだろう。


 

「さぁ送りましょう」と言われたがそんな積りはなかったので驚いた。宿の主人が間違ったようだ。他の客を、「桃岩展望台コース」の起点になるところまで送る積りであった。その客と私たちを違えた。

女主人が慌てて「違う、違う」と言ったので、「先客が来られるまで待ちます」と言うと、「もう少し用意するのに時間がかかる」と先客が言われているので構わない、ということで夕食の時間も相談せず

に出発した。


 それが幸いした。宿から歩いて4時間のコースだと思っていた。お蔭で、桃岩登山口バス停より上のレンジャーハウス前の駐車場まで送って下さった。有難かった。

 妻が望んだ「れぶんあつもりそう」は「桃岩展望台コース 花マップ 平成2967日版」に掲載されていなかった。

 「北のカナリアパーク」に辿り着いたころには、利尻富士は雲に覆われていた。

 バスで帰るつもりだったが、宿まで歩いた。家が崖の下にあった。海は道の下に波高くあった。

「礼文島 旅館かもめ荘」に宿泊。

 昨日、初漁だった「うに」が膳に乗っていた。女主人が何度も「よかったですね、よかったですね」と繰り返した。それは、友人に聞いていた量と随分かけ離れた量だった。

 「ばふんうに」が喧伝されて久しい。大方、高値で東京の料亭などで食されるのだろう。流通の便が良くなり高い旅行費を払って食べに来るほどではないのだろう。地元の人が気軽に食べるのはある意味

「もったいない」ことだろう。


 

 妻の万歩計を見ると16千歩だった。サッカー日本代表戦を終いまで見ることなく眠りに落ちた。

 

614日(水) 実際の気温19° /11°

 朝から雨。

 晴れの日が一日と持たない。

 フェリーの時刻表を見ると1225発がある。

 手にしている予約は、「岬めぐりコース」を歩く予定だったので1705最終だった。1225発に切り替えることにした。だが、観光案内窓口で目にした「おすすめ、雨の日の観光地」の「北のカナリア」

にもう一度行き、「花の講座」を妻が受けたい、で決まった。


 観光バスが3台停まっていた。

 休憩所は人が溢れていた。眺めていると、休憩所から歩いて行き、校内を見学し、戻ってきてお土産を買い、バスは出て行った。

 私たち夫婦と、レンタカーで来られた夫婦と、タクシーで来られた足の悪い奥さんを連れた夫婦だけになった。

 「花の講座」を受けたいと妻が言ったとき観光バスが一台やってきた。台風のように通り過ぎるのを待った。

 「れぶんあつもりそう」について熱く語っていただいた。特に、盗掘にあって桃色展望台コースは全滅した、ということであった。夏に咲いていた場所を覚えておいて、人気のなくなった11月に来て枯れた

アツモリソウを根こそぎ盗む人がいる、山野草ブームの時には一株
4万円近くで取引されました。育てるのは容易でないのに・・・

 

 


観光シャトルバスに1011乗車しカナリアパーク1019降車。2時間ほど見学して路線バス第二差閉1210乗車しフェリーターミナル1216着で1225発稚内行に間に合うか尋ねた。乗り合わせ時間9

で乗船できるのか。

「バスですから時間のズレはあります。出航5分前には乗船口を閉鎖しますから。バスを降りて走っていただくことになります」ということで、1325香深発、利尻鴛泊に寄港して1615稚内港に着く。

利尻島に立ち寄るのが妙に嬉しかった。得した心持がした。

 

 稚内 「天然温泉天北の湯ドーミーイン稚内」に宿泊。

 車はそのまま道の駅の駐車場に停めて置き下着など必要なものだけを持って入った。

 夜はまたも居酒屋。礼文島で食べ損ねたように海鮮を楽しんだ。

 

 酒もたくさん呑んだ。

ほろ酔いで帰ったが、「天然温泉天北の湯」の女湯は気兼ねなく楽しめただろうか?

 

615日(木) 実際の気温16° /11°

 宿を8時過ぎに出てガソリンスタンドを探す。

 1135円、高いが最北端では仕方ない。それにしても、店員の感じ良さに驚く。

 昨日居酒屋で呑んだ「国稀」が美味しくて売っている酒店を教えてもらおうとしたのだが、ホテルのフロントに尋ねると、近くにあった酒店は潰れたがスーパーなら売っている、ということで向かった。

 開店15分前であったが、「ユアーズは北海道稚内市にある卸売スーパー。日本最北端の食品アウトレット。卸売スーパー中央大壹店」の店長が応対してくれたが開店前の忙しさで「国稀は1種類しかありません。

他店なら沢山の種類がありますから」と・・・しかし、ホームページを見ると酒類が多かった。開店前では仕方なかった。私が悪かった。結局、「国稀」を手に入れることはできなかった。


 

 帰途は[道の駅 スタンプラリー2017]だ。

 「なかがわ」→「おといねっぷ」→「ピンネシリ」→「びふか」→「もち米の里なよろ」→「絵本の里けんぶち」→「とうま」→「おんねゆ」

 


 

 「おといねっぷ」→「ピンネシリ」の道の駅の間に「丹波屋旅館」があった。

経営者の変更に伴い、『菅井旅館』から『丹波屋旅館』と改称したということだが、京都府に「丹波」と呼ぶ地域がある。丹波屋旅館と呼称したのは丹波地方出身の人だったからだろうか?

 


 

鹿が二度横切る。一度目は渡り掛けてびっくりして立ち止まりそして慌てて飛び去った。

 助手席の妻が、丘に立ってこちらを二匹が見ていた、と言った。

 狐がよたよたと道路脇を歩いていた。首を下げてあんな風に弱弱しくよたよたと歩くものらしい。それに哀れみをかけて餌をやってはいけない。

 

 おんねゆ「果夢林ショップ」で妻がどうしても買いたいものがあると立ち寄ったのだが午後5時で閉館だった。だが、「からくり人形と世界最大級のハト時計を組み合わせた、高さ約20mのシンボルタワー

『果夢林』。時報に合わせ、さまざまな楽器を手にした森の妖精が踊りはじめると、羽の長さ約
2mという大きなハト『ポッポちゃん』が登場します」が6時の時報で見られた。

 


 

 ガソリンがなくなってきたのでガソリンスタンドに寄り、食事処「ファミリーレストランe'f」を紹介してもらう。

オホーツク北見塩やきそば、干貝柱塩ラーメン、留辺蘂特産・白花豆天ぷら(5個)、を注文する。

「オホーツク北見塩やきそば」は、鉄板にのった焼きそばに“ホタテエキス”がかけられ、日本一の生産量を誇っている「玉ねぎ」が、大きな“オニオンリングフライ”として乗っている。

「干貝柱塩ラーメン」は、別皿で付いてくる“オホーツク醤” をお好みで入れるとピリ辛ラーメンになる。オホーツク醤は、ホタテをはじめ、鮭、昆布、ハマナス、たまねぎ、にんじんなど、オホーツク産の

原料が入っている。


留辺蘂特産・白花豆天ぷらが美味しかった。特産品だけ生産していてはいけない。加工して初めて生産者が潤う。それにしても、白花豆を特産品に育て上げるまでどれだけの労力を費やしただろう。

「ちょぴりソフト」も食べる。

 こんな場所でやっていけるのかと思わせるが、何もかも美味しい。

 

 350キロほど走破した。疲れた。

 最近は『陸別』が目に入るとホッとする。

 

 

 


 陸別に来たのは、陸別町を陶器の街にしたかったからである。

六古窯(瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波立杭・備前)はもちろん、萩、美濃、九谷、有田焼などを戸別に販売するギャラリーを開きたくて、恰好な空き家を探した。

 

 陸別町は何もないのが良い。

 『原野に星は光る』、そのものである。

 にぎやかな光、にぎやかな音がない。

 静かに陶器を眺めるのに適している。

 

 

 このような空き家が町内に点々とあればいいのだが・・・「あるいてあるいて 花いちりんの あき家かな」

 

2016年7月25日(月)
美瑛から小樽へ

 

  妙なことがある。

  舞鶴港に帰港した昼間に姉が訪ねて来ていた。

  その時の話で、近所の小母さんが畑の草を抜こうとしたときに蝮に咬まれた、だから裏の畑に出るときは長靴履いて厚いビニールの手袋をして行きなよ、と注意したという。

  「退院したけど凄く腕が腫れていた」

 


  美瑛から小樽に向かって車を走らせていた。


  数台の車が駐車していたので百メートルほど過ぎて引き返した。

  「三段滝」と看板に書かれていた。ところが、観光客の誰も滝に向かわない。駐車場から下る入口の周囲を「立ち入り禁止」と書かれたテープが巡らされていた。

  貼紙に「蝮 大量発生 立ち入り禁止」とあった。

  便所から出てきた男性が、「びくびくもんだったよ」と、見ると矢張り「蝮注意」の張り紙が便所入口に貼ってあった。

 


  それから五日後、暫く雨が続いていたせいか、軒下に置いていた畑の肥料の下に、何
やら動いた。蒸し暑く湿ったところを好む蝮だった。

  直ぐ様、息子を呼んで蝮の頭に一撃を加えて殺した。

  「かわいそうだから山に帰してやろう」といって埋めた。

  咬まれるとひどい目に会うので殺さないわけにいかなかった。

  「私がよく使う肥料の下に居なければ殺されなかったのに。でも、危なかったわね」

  本当だ。何気なく肥料に手を出していたら咬まれていただろう。よく見つけたものだと思う。その横を通って小屋に行き、引き返して見つけた。通り過ぎる時に尻尾でも踏んでいたら、と思うと怖くなった。

 

  姉が「気を付けなよ」と言った言葉が浮かんだ。

  虫が知らせる、そういうことだったのか、と思う。蝮は虫に腹と書く。

 

2016年7月19日(火)
小樽港から美瑛の丘へ

 

  新日本海フェリーに乗船して北海道旅行をしてきた。

  宿は、簡保の宿「小樽」と「カミホロ荘」。


  簡保の宿「小樽」は朝里川温泉にあり外国人客はなかったが、カミホロ荘には宿泊客がいた。

  ガイドブックに掲載されている場所は日本語を聴くことがないほどであった。

  「地元の人は行かないですね」と教えてくれた人は村営の温泉施設の駐車場で洗濯物が乾くまでの間休憩している人だった。

  「あの山に登る」と指さして教えてくれた山は黄金山だった。

  「ここまでは来ないだろうね」と言って別れた。

  


  潮が引くように外国人観光客がいなくなった後に日本人は訪れるのだろうか?

  それにしても、なにもかもそのおかげで価格が高騰している。日本語が聞こえないはずである。

  いま日本人は行くところがないのだろうか?それは、日本人観光客が大挙して訪れた外国のしっぺ返しを受けているんだろうか。

  

2016年6月20日(月)
東北

 

  東北という地名が付いたのは何時頃のことなのか知らない。京の都からすれば東の北の方角ということになる。

調べてみると、明治以降、東京の東北にある地方だから、という意味で東北と呼ばれるようになったようである。明治以前は、大化改新(645)のころ、日本の中心

 からみて
奥地を意味するので道奥(みちのく)国とされ、その後、陸奥(むつ)国と書くようになり、出羽(でわ)国設置(712)後は両者をあわせて奥羽(おうう)、奥州と

 よぶこともあった。


東北地方という呼称は明治以降のことである。というのが定からしい。

 


  兎に角、道奥国とされ、その後、陸奥国とされ、読んで字の如し最果てである。


  最果てと思わせる部落は本州にも、四国にも、九州にもある。なのに下北半島、津軽半島を最果てと呼ぶのは、冬の凄まじさが人を寄せ付けずにそう呼ぶのだろう。

 

  京都府舞鶴市に成生という部落がある。

  成生は、大浦半島、顔の耳の下あたりに位置し、成生の先の成生岬は、日本海に面する。京都府最東北端の地である。岬の地形は、標高100から200mほどの山地とな

 って
いる。先端は成生岬灯台と、灯台保守のための船つき場が設置されている。このことから察せられるように成生部落の先に部落はない。

  青森県に所縁のある人物で思い出されるのは、棟方志功・高橋竹山・太宰治・寺山修司・三上剛太郎ぐらいで他は見当たらないのだが、この成生には全国津々浦々ま

 で成生
を知れ渡らせた人物がいる。それは政治の世界にも芸術の世界にも医療の世界にも興味を持たない人にまで知れ渡った。金閣寺炎上である。

 

  三上剛太郎のように、こんなところで育ったのかと感心する人物を探してその土地を尋ねてみたい。そして文にしてみたいと思う。

2015年9月6日(日)
熱海花火大会

 

 

  知らなかった。

  今回の芥川賞に選ばれた作品の冒頭が熱海花火大会の情景だとは。

  花火大会を見終えて友人の家に泊まった折に芥川賞作品が掲載された文藝春秋を手に取った。

  私が手に取ったのを透かさず見て「何が書きたいのかちっとも分らん」と言った。

 

 四年振りに逢った元同僚は背中が曲がり痩せていた。

 熱海駅の改札口を出たところで大きく手を広げて私の肩に両手を掛けようとした。それが私には気恥ずかしく一歩近付かなかった。

  四年間にあった出来事を舌癌で失ったベロ(彼は舌をそう言った)を使って話して聞かせた。

 54歳で妻が胃癌で亡くなった。娘が離婚した。

  奥さんが亡くなったことは知っていたが胃癌だとは知らなかった。

  「おとうさん、ごはんがたべられない」

 胃癌は手遅れにならなければ助かる癌だと思っていた。我慢していたのだという。

 亡くなった年の賀状には、家内は歴史の勉強に奈良まで通っています、とあった。

 娘が離婚した。

 相談はなかったという。

 「おとうさん、お母さんの異変に気づいていなかったの?」

 離婚した娘がひとりぽっちで暮らす父のもとに帰ってこない。

 「何も食べられなくなるまで気付かなかったの?」

 一人息子を跡取りだからと手放して一人で暮らす娘は生活のため会社を辞めるわけにいかなかった。実家から通うには遠過ぎる、と彼は言った。

 

 宿から見ていた。尺玉の花火が上がった。

 花火の中心から見れば花火はどう見えるのだろう。無理な注文だが、花火は少し離れてみるものだが彼は家族を少し離れてみていたのかもしれない。

 「単身赴任の夫を持つ家庭のようなものよ」

  彼は出張が多かった。多く家を留守にした。両親がいつも家にいる家庭で暮らす娘より母娘の糸は固く縒りあっていた。

 

  「家に寄って行かないか?」

 「もっとさびしくなる冬に来るよ」

 「雪が降る前に来てくれよ」

 「そうする」

 

 

  蛇足:芥川賞受賞作家を担当していた編集者がこの作家のどこが素晴らしいかと問われて「嬉しさを表すのに嬉しいと書かずに動作で表した」とこたえていた。

  ぴょんと飛んだのか跳ねたのか、その表現を、本を読んでいない私は知らないのだが聞いていて思い出したことがある。

  志賀直哉の「母の死と新しい母」という作品の終わりの方に、『渡すと私は縁側を片足で二度ずつ跳ぶ駆け方をして書生部屋に来た』、とある。

  この前に『「ありがとう」こういって美しい母は親しげに私の顔をのぞき込んだ。二人だけで口をきいたのはこれが初めてであった』とある。

  すでに「片足で二度ずつ跳ぶ駆け方をして」嬉しさを表す表現をしている。

  このことを雑誌の担当者が知らないのは国語教育が悪いのか勉強不足か知らないが芥川賞の権威が落ちるのは致し方ない。最年少、最年長、中国人、ひらがな文など

話題作りだと言われても致し方ない。


 

 

            

 

 

2015年7月4日(土)
ホームページが消えた

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2014年10月6日(月)
柿の葉

 

  柿の葉が綺麗だ。


  そう言うと、「そうかしら」と答えた。


  どうしてこんなに鈍いのかと思う。ところが、国語の成績は良かったという。


  私は悪かった。この文章の主題は?と問われると、これも正解、あれも正解と思ってしまい×を食らった。深読みするからよ、と言う。素直に考えればいいのよ、あなたは少し旋毛曲がりだから。だから・・・


  だからなんだというのだろう?


  柿の葉は柿の葉よ。


  

  柿の枝は弱いという。登っていて兄が落ちたという。それで、祖母が切らせた。稲刈りの頃になると畦豆と柿とさつま芋がおやつだった。それが、ある秋から畦豆とさつま芋になった。台風が去ったあとの

 柿の葉の掃き掃除は嫌だった。厭だったがおやつが畦
豆とさつま芋ばかりでは曼珠沙華が咲かない畦のようにさびしくなったという。


 

  陶器がこの柿の葉のようであったなら手に入れたい。


  出来ない?


  何とか似せようとするけどね。


  柿の葉って毎年違うの?

  実が多く成るとこんなに色づかない。

  流石ね、カメラマン。


 

  カメラが面白くなった。多分に歳を取ったせいだと思う。足元がよく見えるようになった。よく見るようになったというほうが正しいのかもしれないが、とにかくよく見ると庭の片隅に咲く花、道端に咲く花

 が可愛い。レンズを通して見ると細工に驚く。蝶を
誘う化粧の巧みさに秘密を見る。

      


  作り出せないわね。


  そう思うと人間なんて小さい。


  敵いません自然に。


  科学、物理、真理なんて自然界にあるものを発見しているだけだから。

  身体の傷口も塞がれます。

  心の傷は塞がれない。

  いいえ、忘却という術を与えられています。


 

  母の認知症が進んでいる。いろいろあった何もかも忘れて赤ちゃんのようににこにこしている。こうして何もかも忘れて生きていることは幸せなのだろうか・・・母の頭をひとつ撫ぜてみる。

  銀杏の落ち葉を集めたことはあるが柿の葉をしげく見たこともなければ集めたこともい、と家内は言った。

 

2014年9月28日(日)
青春18きっぷの旅

 

鳥取「砂の美術館」 青春18きっぷの旅


  夏の青春18きっぷの有効期限が910日迄なので、丁度シニア価格で安く泊まれる宿があり、砂の美術館に行きたいと家内がかねてより言っていたので行くことにした。

  ただ、鳥取までの運賃は青春18きっぷ1回分と然程変わりがなく山陰本線だけで行ってはもったいなく(ケチだと思う)綾部・福知山・和田山・姫路・寺前・姫路・播磨新宮・上月・東津山・智頭・鳥取と

 乗り継いで行った。


   高校生の頃、上夜久野・下夜久野から340分掛けて通学していた同級生がいる。

   今思うと乗車中勉強すれば実になったと思うが、周りの学生を見ると掌に薄い小箱を皆大事そうに包み込んでイヤーフォンをしている。談笑していない。食堂でも個室のように周囲を囲った食卓で食べている

 らしい。これが現代書生気質だろう。

綾部―東津山 所要時間:凡そ6時間、東津山―鳥取 所要時間:凡そ2時間、綾部8時半ごろに出発して鳥取に5時前に着いた。随分と遠回りした。得した気分がした(やはりケチだと思う)。

                 


   姫新線普通津山行が来るまで上月駅で1時間ほど待ち時間があった。計画として丁度昼時だったので上月駅前の食堂で昼食をとるつもりであった。上月駅はこうづき駅と読む。

  ところが、駅舎を改造した物産店は生憎と休日で、また川の傍に駅があり、ありふれた駅前商店街がなく、どうやら橋を渡っても街中に食堂はなくそれで駅舎を改造して食堂及び物産店を開いているようだった。

 少し清流に沿って歩いてみたが小魚を捕ってい
る鷺などがいるばかりでお腹を空かした人間は誰一人といなかった。

  駅舎に戻り何度も窓ガラスに額を付けて中を覗いた。名物と書かれた札が垂れていた。損した気分がした(つくづくケチだと思う)。

 


  鳥取駅から徒歩10分ほどの宿だった。


  宿の夕食は、注文を付けなければ家内と同じ献立が並ぶがここは違っていた。14品目出された。夫婦であれば7品目がそれぞれのお膳に並ぶのが当たり前だが、好きなものは分け合って、厭なものは譲り合って

 食べる。


  「これ美味しい」


  「そうか」と言って手を伸ばす。


  「これ苦手」


  「そうか」と言って手を引っ込める。


  山の幸、海の幸が出される。それは何処の宿とも同じだが美味しい。お品書きを家内が取っているので見ればわかるのだが地産地消で勝手知ったる一番美味しい食べ方で料理してあるのだろう。

  鳥取は砂丘が日本海にあり山と縁がないように思うが、山陽から山陰に入ったところは山が濃くそこを越えると河原城を挟んで鳥取県初の人間国宝と石破代議士が育った田舎に出る。

  私の幼馴染が、「有名になった者同士が昔を辿ると何処かで交錯していることがよくある。有名になってから出会うのではなく、有名になった人が昔知り合いだった、そういうことがよくある」と言った

 ことがある。

  「ということは、お前が有名になれば俺も有名になる、そういうことだ」

  そういった友人は未だ有名でない。詰まり、私も友人も未だ凡人でありこれからもそうである。

  木の子の炊き込みご飯が美味しかった。明日のお昼のためにお握りにしてもらった(ケチだと思う)。

  
  厭な気分になった話を一つ二つ。

  砂丘入口のバス停でバスを待つ間に傍にあった土産物屋で梨のアイスクリームを買った。

  店内のベンチに腰かけて食べていたのだが気付くと二人の間が汚れていた。丁度落としたアイスクリームが溶けた跡のようだった。家内がお客の対応が済むのを待って女主に雑巾を貸してもらうか拭いて

 いただくようにお願いをしに行った。


  その間に食べたアイスクリームが落ちたのであったら申し訳ないと思い触ってみると
ネバッとしている。アイスクリームならもっと水気がある。どうも他の客が蜂蜜のようなものを零したらしい。

  家内が戻ってくると、困った顔をしていた。すると、隅に店を構えさせてもらっているのかアイスクリームの売店の女主が来た。私たちがアイスクリームを零してベンチが汚れたから拭くように言ったという。

  「これはアイスクリームの雫ではないね」

  アイスクリームの売店の女主は店に戻っていった。

  土産物屋の女主は見もしないで私たちがアイスクリームを食べていたから零したと思ったのだろう。それにしても、店のベンチである。誰が拭いても客は困らないだろう。


こういう時、「教えていただいて有難うございます。服は汚れませんでしたか」と対応されると矢張り日本はいいなと思うのだが・・・


  私たちが零したのであれば謝るだろう。知らん顔して後にするなら腹を立てるのも仕方ないが・・・土産物屋の店の名前は「()吉田物産砂丘会館」である。


 

  それから、後日わかったのだが土産に買った梨は51300円だったが、市内のスーパーで買えば5900円だった。スーパーの梨は鳥取で買った梨より大きかった。屋号は、「秀光園」とあった。鳥取の

 どこの梨園も同じだろうと思う。


食べ比べてみたが味・水気など変わりなかった。何時ぞや久美浜の梨園で買おうか迷って地元の人に尋ねてみると市内のスーパーと値段は変わらないと教えてくれた。


  スーパーは大量に仕入れるから安くできるのだそうだ。


 

  序に気付いたことを書いておくのだが、


  「中国語で砂丘は沙丘と書くのか?」


  「そうかしら」、とふわりふわりと世の中を眺めている家内は気付かない。


  「バス停の表記」


  「ほんとだ」


  これでは植えたばかりの落花生を獣に食べられたのを家内が気付かないのも仕方ない。




  
  帰りは山陰本線で鳥取から浜坂・豊岡・福知山・綾部と帰ってきた。


 
2014年6月29日(日)
HAPPY 綾部出身 

 

  「HAPPY」 サマーソニック 東京ラインナップより

 

2012 1 11 日、京都府出身の幼なじみで結成されたバンド「HAPPY」。昨年2013年のSUMMER SONIC 13 出演をきっかけに話題を集め、現在知名度急上昇中。


  今年3 月、バンドとして初となる流通音源[SUN] をタワレコ限定でリリースし、デイリーインディーチャート1 位、総合チャート 3 位を獲得!! 現在も驚異的消化枚数で、全国にHAPPY 増殖中のなか、

早くも
2 枚目となるシングル[Wake Up / Lucy]
リリー !!


本作は今年3 月にアメリカ テキサス州オースティンで開催された世界最大の音楽見本市サウス・バイ・サウス・ウェスト14 SXSW14)に出演した際、アメリカで先行発売され、SXSW も含むUS Tour

  (アメリカ
8 都市10 公演)で完売した作品を国内
リリース。 楽曲は、若干20 歳の衝動が溢れる[Wake Up] とルーツミュージックを消化してきたHAPPY だからこそのポップ性を発揮した[Lucy] 2 曲を両A

  として
収録。また70 sUS バンド, The Modern Lovers [Government Center] のカヴァー(メインボーカル : Dr.Bob)。彼らの人柄が滲み出たユーモア溢れるカヴァーアレンジに仕上がっています。

   これこそ新時代ダンスミュージック!! これぞ新時代到来の音
です!! [Wake Up] で目覚めて[Lucy] と踊れ!!!!!


 

  ここに書かれている2 枚目となるシングル[Wake Up / Lucy]を四条河原町の河原町OPA9階にあるタワーレコード京都店で購入し、午後7時からのミニライブとサイン会に参加してきた。      




  メンバー一人一人がCDジャケットにサインするから長い列ができ、自分の番が来たときには随分と時が経っていた。それもその筈、CD購入者の問い掛けに快く応じていたためであった。

「こんな年寄りで申し訳ない」「子供からお年寄りまで僕たち歓迎しま
すから、嬉しいです」



 

  高島屋の地下で珈琲豆を買い、それで駐車料金を軽くして帰宅する車中で、


  「ここまで成るのに苦労したでしょうね」


  「高校を卒業して音楽で生きようと、その思いが揺らがずそれを叶えたことは凄い」


  「そういう若者が全国に一杯居る中から頭一つ抜けたのだから凄い」


  「親も凄いね」


  と、凄い凄いを繰り返していた。


 

  夢は人に語ると叶う、というけれど、どれほどの人が叶えただろう。


  若い人の夢が叶うことを願うばかりの歳になった。


 

2014年6月4日(水)
石垣島

 

  妻が、沖縄の海が映し出されるたびに「行きたい」と言っていた。


  「ハブがいるから厭だ」、とその度に断わっていた。蝮と百足が嫌だ。出くわすと周りの人が驚くほどに飛び退いてしまう。両親は離婚するまで喧嘩が絶えなかった。口達者な母に手こずり父はよく手を挙げていた。
 
 今でいう、家庭内暴力=DVである。妻の言
葉の暴力、夫の暴力、どちらが悪いのかわからないが、恐怖のなかでの幼い生活は神経がまいってしまった。それだから、言葉にしろ、懐に短刀を隠し持っているような
 
 人に
嫌な感じを受ける。それが、何やら蝮やら百足やら危害を与えるものに対して恐怖を抱き避けるようになった原因だと思う。




  「草叢や石垣の穴に注意したらいいそうよ」


  「道の真ん中を歩くのか、車に跳ねられてしまう」


  「・・・夜の外出は控えて」


  「今までいなかった宮古島なのに公園の芝生の上を這っていたらしい」


  「ニュースね・・・稀よ」


  「稀なことが怖いんだ。それに、ハブがいないことを売り物にしていた宮古島にもいたということだ」


  「大丈夫よ」と、事も無げに妻は言った。




  出発を目前に控えた日に、「10日午前9時ごろ、鹿児島県瀬戸内町で同町のアルバイト男性(51)がハブに右手の甲をかまれ、約3時間半後に死亡した。現場は奄美群島の加計呂麻島。保健所によると、奄美

 でのハブによる死亡事故は2004年7月以来と
いう。」という記事が出た。




  那覇で乗り継ぎ石垣島に着いた。レンタカーの手配がしてあったので、空港で迎えの車に乗ってそこまで行き、手続きをしている間にハブのことを聞いた。


  「その前の道に出てくるさー」と、事も無げに店員は言った。


 

  全ての説明と手続きを終えホテルに向かった。信号がない。ナビの指示通り左に曲がり坂道を上った。少し走ると事故に出くわした。事故現場に交通整理がない。ナビは事故現場の交差点を右に曲がれという。
 
 十字路に信号がない。止められもしないので右に
曲がった。妙なことに昂ぶった。スポーツでいう、アウェイに来たという感じだった。


  だいぶ走り、ライトの端に歩道をはみ出して道路に横たわっている足が見えた。助手席の妻の方がよく見えたはずだが気が付かなかったという。


 

  ホテルの受付でハブのことを聞いた。


  「駐車場で見かけます」と、事も無げに従業員は言った。


  宿泊の手続きを終えて部屋の鍵を渡されたとき、


「ハブが部屋に入ってきたりしませんか?」


「今のところはありません」


「あるかもしれない、ということですか?」


「わかりませんね」と、事も無げに従業員は言った。


そして、見間違いかと気になっていた、「道路に足を投げ出して寝ていた人を見た気がしたのですが」、


  「ああ、居ましたか・・・」と、事も無げに店員は言った。


  「居ました?」


  「石垣島の風物詩です」


  「被害はないのですか?」


  「あるさ」


「はねた人は?」


「日常茶飯事のことだから取り立てて…」


「路上寝をしていてハブに咬まれませんか?」


「沖縄や奄美に棲むハブに比べてサキシマハブは気立てがいいさー、だいじょうぶさー」、と語尾を上げて、事も無げに店員は言った。


 

翌朝の朝刊にこんな記事が掲載された。


 

「路上寝はやめましょう」。沖縄県の石垣島(石垣市)で酒に酔って路上に寝る人が相次いでいるのを受け、八重山署は今月から警告活動を始め、17日までに石垣市の33~44歳の男女4人に警告書を出した。


  路上寝は、交通妨害になるような方法で道路に寝そべってはいけないと定めた道路交通法に違反する行為。繰り返せば逮捕することも検討し、警告書にも明記した。


  石垣島や近隣の島を管轄する八重山署によると、昨年1年間の管内の路上寝件数は過去7年で最も多い568件。ほとんどが石垣島で起きており、今年は昨年を上回るペース。


車にひかれたり財布をとられたりする被害も目立っているという。


  八重山署の嘉手苅忠夫副署長は「温暖な気候など地域的な背景はあると思うが、酒の飲み方が原因だ。本人の自覚が一番だが、周囲の人もタクシーや車で送ってあげてほしい」と話した。(共同)


 

  観光客からハブ咬症被害を防ぐために捕獲をしていると思うのだが、こんな記事があった。


 

  住民が捕獲した毒ヘビ「ハブ」を買い取っている奄美大島と徳之島の8市町村は、新年度から一斉に買い取り額を引き下げる方針を固めた。近年持ち込まれるハブが3万匹を超え、財政負担が大きいことから、

 05年度以来9年ぶりに改定。現行価格から最大
1千円減の一律3千円となる見込みだ。一方、ハブ捕獲で得た奨励金を収入の一部としている住民からは、「生活が苦しくなる」と不満の声も上がっている。


  価格引き下げは、ハブを捕獲する〝ハブいざり〟で生計を立てたり、生活費の一部に充てている住民にとって頭の痛い問題だ。


 

  それにしても暑い。4月半ばだというのに30度近くある。


  それでも、竹富島、由布島、西表島の海風は涼しい。


 

「来て良かったな」


「そうでしょう」


「お金を稼ぐことを覚えたら生活が忙しくなるみたいだね」


「竹富の牛も由布の牛も急かされていましたね」



   


帰宅して初めて石垣島の位置を知る。


西表島の観光船の案内人が、沖縄本島より台湾の方が近い、と言っていたが地図を見て驚いた。思えば遠くまできたもんだ、その通りだった。


「利尻から八重山の景色と気候、随分違うね」


「いい国です。花鳥風月、雪月花、麗し日本です」


「そういえば、朝の連続テレビ小説に『ちゅらさん』というのがあったな」


「ありましたね」


「いまから観るさー、観ないといけないさー」と、ふざけると


「当たり前田のクラッカー」と、妙な答え方を妻はした。


 

早速借りてきて全巻観た。小浜島が舞台になっていることを後から知った。にがうりの形をした土産物の人形「ゴーヤーマン」が、本当に土産物屋にあったのか気になった。


みんさー工芸館にいったのだが、テレビに映し出される古波蔵家の父の恵文、母の勝子が身に着けているシャツとエプロンが高価なことをそれで知った。


 夏川りみという歌手が紅白歌合戦で身に着けた衣装が飾ってあった。こうしてみると織り糸の鮮やかさに驚かされた。高価であることは一目でわかった。


『ちゅらさん』の物語の筋を知り、母の勝子役の田中好子が亡くなったことを想うと役者とは因果な生業だと思った。


           

「小浜島に行かなくては」、声に出さないがお互いにそう決めたに違いない。そういう、「みいちゃんはあちゃん」夫婦である。



 


2014年5月20日(火)
熊野古道 それから

 

  可笑しな夫婦で、その気になるというのかすぐに感化される。


 

  「熊野古道を造ろう?」と、家内が云い出し敷石を貰いに何時もお世話になっている菱田工業の石置き場に向かった。積み上げられた中から手頃な石を拾っていると、社員の方が見に来られた。少し前に、

 近所のおばさんが胡散臭そうに私を見て通った。電話
があったのだろう。社員と思ったのは社長の息子だった。




  この道も枯葉に埋もれ家も朽ちて跡形もなくなるのだろう。思いを昔に馳せる、そう人は繰り返していくのかもしれない。


 

2014年4月23日(水)
青春18きっぷ 熊野古道

 熊野古道

 

  春恒例の青春18きっぷの旅に出た。




  今回はゆっくりした朝だった。綾部を8時過ぎに出て熊野市に4時半頃に着く。


 

  所要時間    8時間28(乗車:442分、その他:66) 乗車距離    312.7km


  乗車料金    5400(乗車券:5400, 特急券等:0) 乗り換え回数    6


 

  その他:66分、とある。


園部で21分、京都で18分、草津で13分、柘植で2分、亀山で9分、多気で3分の乗り換え時間がある。向かいのホームに向かう時間、跨線橋を渡る時間を合わせると66分になる。


それでは、乗車時間の中に「列車行き違いのため」「列車待ち合わせのため」「列車通過待ちのため」どれが正しいのか知らないが、それが何分あるのだろう。それで、汽車から電車になって振動も少なく座席も

 心地よく一つ一つ丁寧に駅に停まって時間がたっ
ぷりとあるので体を深く座席に沈めて乗換駅までの時間を調べてみた。


  

   綾部~園部  42.0㎞  56分 1.33/


園部~京都  34.2㎞  42分 1.23/


   京都~草津  22.2㎞  23分 1.04/


   草津~柘植  36.7㎞  43分 1.17/


   柘植~亀山  20.0㎞  23分 1.15/


   亀山~多気  42.5㎞  58分 1.36/


   多気~熊野 115.1㎞ 197分 1.71/


  多気から熊野までが1㌔行くのに時間がかかっている。停車時間を調べてみると、紀伊長島駅から尾鷲駅まで一駅毎にこうなる。紀伊長島駅、三野瀬駅、船津駅、相賀駅、尾鷲駅で16分、1316分、1分、8分で

 計
54分停車している。




 
 


  そうこうしているうちに京都駅で注文した駅弁を受け取る亀山駅に着いた。


  予約注文である、名物「志ぐれ茶漬け」。



       


  三野瀬駅から見えた「喫茶 ゆう」。この看板の下が喫茶店だろうか。それとも宣伝看板だろうか。ここに喫茶店があるのが不思議だ。そう言うと、「人口4万に満たない、京都から遠く離れた綾部の陶器店に

 鳥取県初の人間国宝にな
った前田さんの作品を売っているなんて誰も知らない」と、妻が言った。


  「喫茶 ゆう」は隠れた名店かもしれない。



 


  かんぽの宿に泊まった。


  熊野市駅まで迎えに来てくださった方は大阪から転勤された方だった。


  「舞鶴にもありましたが、次第に閉鎖になってしまい・・・」


  宿の受付の方は一生懸命におもてなしをされようとされた。


  会場に上がるエレベーターまで送ってきて、エレベーターが閉まりかかると頭を下げた。



 


  事前に古道の案内を頼んでおいた。


  私たち夫婦だけだった。贅沢な○○待遇のようであった。


  古道・・・いい響きだ。


  「地元の人は誰も歩きませんね。不便ですから…」


  「早く、安く、楽に・・・仕方ないですね」とも、道案内人は言った。



 


  熊野市駅前で昨夜食べきれずお握りにしてもらっていたのをベンチに腰かけて食べた。

  誰一人として餌を与えなった。それでも、鳩が離れなかった。


  


  また同じ線路を戻った。


 

 
2013年12月16日(月)
薪ストーブと甘酒と、そして冬

 

  昨年の春に完成した小屋に置きたかったのだが、8畳くらいあれば良かったのだが狭過ぎて無理だった。


それで、今まで通り裏庭に置いて甘酒を作った。


      

  欲しそうな素振りも見せず妙な格好で此方を見ている飼い犬である。


  ストーブの傍に来て暖を取る犬を見かけることがあるが、こいつは寄ってこない。


  


  家族の誰も寄ってこない。掌を翳すのは私一人である。



 
 


  酒粕は「越乃寒梅」という清酒の絞り粕である。これが良い香りで美味い甘酒ができる。しかし、そう口喧しく云っても誰も飲まない。


  誰か尋ねてくる人があれば一杯差し上げるのだが、作っているときに限り誰も訪ねてこない。仕方なく一人で飲み干す。酔っ払い運転になるのか、と思うほど体が火照る。


  相変わらず飼い犬は胡散臭そうな目で見ている。


 

  志賀直哉に『焚火』という小説があった。


  湖だか沼だかに燃えている薪を投げた場面が印象に残っている。


  火がつくときの炎、燃え上がる炎、消え入る炎、妙に太古の時代を思う。炎は幾世も変わらないものである。心を温めてきたものだと思う。


  炎を囲んで心を溶かせて一つにと思う。小学校から薪ストーブが消えた。登校の集合場所に焚火があった。温めていたと思う。



 
  


 

2013年10月1日(火)
青春18きっぷ

 

  春に三重県鳥羽に行った。それで、紀伊半島の反対側にあたる紀伊白浜に行った。


  本当のところ一度に紀伊半島をぐるりと巡りたかったのだが、一泊二日の青春18きっぷでは無理だった。二泊すれば可能だが、時間と特に宿泊代が捻出できず諦めた。


  鳥羽では、伊勢海老と鮑と松坂牛を盛った食事を頼んだのが失敗だった。どれも小さく美味しくなかった。伊勢海老なら伊勢海老、鮑なら鮑、松坂牛なら松坂牛と食するのが良い。家内に言わせると貧乏人根性

 というらしい。


 

  兎に角、和歌山に行こうということで宿を探したのだが、テレビでCMを流している「湯快リゾート」に決まった。「ありがとう特典付き敬老プラン」にギュッと裾を摑まれた。


  都会の区切られた部屋に暮らしているわけではないので宿の部屋など清潔であれば良かった。歳を取ってから本当に身近なものに心惹かれるようになった。足元の雑草の花が綺麗だと思う。それで十分だと思える

 ようになってきた。窓から海が見えようと山が


見えようと二部屋あろうと隅々まで清掃してあればよかった。


 

  大阪から和歌山に入ると侘びしい感じになった。徳川御三家であったのが世の移り変わりを知らされた。駅など建物など、大阪が賑やかで派手好みなのか、飾った感じがしない。品とも違う。うらぶれたといえば

 言い過ぎであろうか。



 
   


  食事はバイキングで、宿泊料金を考えればただ腹を満たすと考えなければいけない。他所様から頂く野菜、魚介類と比べてはいけない。配達される牛乳とは違う、豆から挽いて呑む珈琲とは違う、果汁100%の

 ジュースとは違う、兎に角違うのである。


 

  美味しい料理を食べに行く旅行とも違う。ゆったりと温泉に浸かる旅行とも違う。宿を楽しむ旅行とも違う。ただ、各駅に止まり無駄に時間を過ごす。車窓に流れるありふれた景色を物憂げに眺めるものである。


  それで思うのは、順番が来るまで、乗り合わせた見知らぬ人々が胸を叩けば哀しい音がするのを忍ばせて生きている、ということである。


 

  あんな山間の家にぽつねんと終日誰とも話さず生きている人がいるのだと知る。


  そう知る私は便利な世に生きていると思う。


 

  駅弁が少なくなった。不便になったかといえば駅弁に代わるものはいくらでも売っている。すると、駅弁と麦酒と各駅停車の旅があってもいいと思う。


  


 

2012年10月22日(月)
花摘む野辺に陽は落ちて

 

父が亡くなる5年前に裏山に植えた栗の木が実をつけ今年も拾いに行った。


  

  4人掛けの食卓に向かい合って母と栗の皮を剥いた。


  籠から栗を食卓に移すと母は驚いた顔をした。山に積まれたから頑張ろうと思ったのだろう。


  鬼皮を私が剥き渋皮を母が剥いた。


  包丁で渋皮を剥くカリカリとした音だけが聞こえていた。


 

  小学六年生二学期の国語の授業で俳句を習い二首詠むことになった。


  『いが栗の 痛さにしみる 秋の風』


  先生の評は、いが栗の棘が刺さった指に冷たくなった秋の風が吹く、侘びしさも出ていていい句だけど、「いが栗」と「秋の風」で季重だから、ということであった。


  二首目は、『いが栗の 痛さを押さむ 親指か』であった。


  これはいい句だ、親と一緒に栗拾いに来て棘が指を刺し、それがまた親指であり、秋の実りの豊かさとやがて来る厳しい冬を思い起させる、また親と一緒の喜びとやがて来る別れの寂しさが上手く詠まれている、

 という評であった。


  評するというのは勝手なことだ。評する立場の人は思わぬことを時々いう。親のことなど何も思わず、ただ棘が親指に刺さり痛かっただけである。


 

  母の口の端が白い。


  眺めていると栗の一片を口に運ぶ。


  小さいころ、山栗を拾っては生で食べていたのだろう。


 

  先に鬼皮を剥き終えた私が渋皮を剥き始めると母はにっこりとした。そうして時々栗のひとかけらを口に運んだ。


  生栗を食べてお腹を壊したのだろうか。それを学校から家から叱られて食べられなくなった。今は誰にも咎められずゆっくりと口に運ぶ。


 

  日も落ちたのだろう、薄暗くなってきた。


  しかし明かりをつける前に渋皮を剥き終えた。


  また母は私を見てにっこりとした。緩んだ口元は白かった。


 

  栗の甘炊き(母はこう言っていた)ができたら持ってくるから、と介護施設の職員に腕を捕まえられている母に、家を後にする前に言った言葉をもう一度言った。


  母は丁寧に頭を下げた。


  私の後を追うことはないと職員は母の腕を放した。


  最前から気になっていたのだが、お辞儀をしたまま握っていた手をひろげると栗を握っていた。


  職員に黙っていようと思った。こっそり食べるのだろう周りが寝静まった部屋の中でかりかりと音をさせて。お腹を壊すかもしれないが大事に至らないだろう。


 

  母が認知症だとわかるまでどうしてあんなに怒ったのだろう。親指に刺さったいが栗の棘は私だった。


 

2012年2月4日(土)
堀炬燵


 

  家内とテレビを見るのが日課になってしまった。


  毎日が日曜日になったと喜んだのは何年前だろう。


  そして家内は「あらっ?!」と呟くのが近頃多くなった。


 

  今日も家内は「あらっ?」と言って「若い人はテレビを見ないようね」と呟いた。


  テレビで若い人たちのテレビ離れを報道していた。


  家内は「可笑しいわね」と言った。


  「テレビ離れの若い人に向かってテレビが訴えるなんて可笑しいですね」


  画面は手元の四角い機械を見詰める若者を映していた。「ET」のように指先で画面に触れて人と繋がっているのだろうか。


  「東京オリンピックを私たちは白黒テレビで夢中になって見ましたのに」


  「そうだね。学校のテレビで見たな」


  「ケネディ大統領暗殺事件の報道番組も見ましたね」


「アポロ11号月面着陸の実況も興奮したな。いつも眺めている月に人間が立っているなんて不思議な気持ちがして息を呑んで見ていた」


  「月に立った人は誰でした?」

  家内は近頃人の名前が思い出せず口篭もることがあるのに「あらっ?!」と言う度に
鮮明に思い出すことがある。


 

  16日は小寒で寒の入りとなり121日の大寒を過ぎて23日の節分まで寒の内というのだが日本海側に降り始めた雪は24日の立春まで続くらしい。


  「あらっ?!」とまた家内が言う。


  「違う新聞が入っていますよ」


  「配達人が変わったのか?」


  「間違ったのかしら?」


  「それとも新聞を取って欲しいから見本紙として置いていった?」


  「それでしたら一言添えてありません」


  それもそうだと思う。


  読み慣れない新聞は間誤付きますね、と言いつつ読み比べている。


  「どの新聞にも読者の投稿欄があるでしょう」


  「むかしは高名な小説家も投稿したらしい」


  「今はお年寄りしか投稿しないのかしら?」


  そういって年齢を読み上げた。


  「62歳、59歳、37歳、69歳、81歳。此方は、71歳、77歳、14歳、81歳、69歳、58歳ね。若い人は新聞も読まないのかしら?」


  「読んでも投稿する人は少ない。でも発行数は減っている」


  「世の中のことあの小さな機械で知るのね」


  「そうだな、僕たちがテレビで知ったように」


 

  雪掻きの音が隣から聞こえてくる。家内が、自家もしましょうか、と私を見る。


  雪掻きの後で飲む甘酒が私も家内も好きだ。甘酒欲しさに雪掻きをする。新潟のお酒「越の寒梅」の酒の粕で作る。香りがいい。小さい頃はそれほど好きでなかったがこの酒の粕の甘酒はいい。


  家内が「ひとつ掬っては呑みましょう」といって「えべっさん」のような掛け声で雪掻きをする。


  「そんなに頑張っては呑み過ぎて酔ってしまうぞ」


  すると家内は積み上げた雪の上に立って私の背丈を越えて腕を体の前で交錯させ、「雪女です」、と言った。


  「白無垢の花嫁だね」と私が言うと、何を思ったのか


  「今は晩婚ですって」


  三人の子どもたちはとっくに三十歳を超えてしまった。


  「昔はよかった」


  家内が子供に何かの折そう言うと「大人になると、昔はよかったと思うものらしいよ」と返されていた。子供を育てる環境に無い、と言う。


  「結婚したら子供は生むもの生まれるもの。生まれないのが不思議なぐらいで何の疑問もありませんでした。生もうか生むまいか悩むなんて心の底に溶けない万年雪の塊りがあるようで冷え込むのは当たり前ね」


  皆で雪掻きをしたことが思い出される。孫と一緒に庭にかまくらを造ることはもう無いのかもしれない。


  折れ曲がった南天の雪を払って振り返ると雪女が消えていた。足元が崩れ雪の上にしゃがんでいた。


  「雪女は平穏に暮らしたいです」、と家内は言った。


  月に人が行くようになって雪女は現れなくなった。山形の村では雪女は雪と共に舞い降りたかぐや姫と伝えられている。


 

  降る雪の中から子供の声がしない。雪掻きをする年寄りの腰を叩く音がする。


 


かぐやSELENE, Selenological and Engineering Explorerセレーネ)は、宇宙航空研究開発機構 (JAXA) の月周回衛星。SELENEはギリシア神話の月の女神セレネ (Σελ?νη, Selene) にちなんだ名称
 
 である。


この衛星を利用した月探査計画はSELENE Projectセレーネ計画)と呼ばれ、アメリカ航空宇宙局 (NASA) のアポロ計画以降、最大の月探査計画とされる(日本初の月探査は1990年打ち上げのひてん)。

主衛星と2機の子衛星で構成され、14種類の観測機
器を搭載していた。


かぐやの愛称は、JAXAの行った一般公募によって決定された。後に子衛星2機にも愛称がつけられ、リレー衛星は「おきな」(OKINA)VRAD衛星は「おうな」(OUNA) 命名された。それぞれ、竹取物語の中で

 月へと帰るかぐや姫と、育ての親の翁(おきな)、
嫗(おうな)にちなむ


 


2012年1月5日(木)
お年玉

 

  自分自身も聞こえ難いと思っていた。

  二歳になったとき盲聾学校に連れて行かれた。この頃母は私にかかりきりだった。母の中心に私がいた。父は家を出て行った。

  母の声に振り返らなかった。母は慌てた。私は、ことの自体が呑み込めなかったが、母の発する音が微かであることは分かっていた。それが難聴であることを知ったのは随分後のことである。

  父は有能であった。だから、もっともっといろいろとしたかった。私を家族の宝と思えなかった。私を中心にして家族の絆が繋がっていくには人並みに欲望を持っていた父には耐えられなかった。誘いを断って

 家族の中でだけ生きていくには息苦しかった。父
は私が盲聾学校に入学したときに家を出た。

  母は生計を立てるため私を盲聾学校に送り届けると近くのスーパーに働きに出るようになり、そして迎えに来て連れて帰る一日を送るようになった。


  

  幼稚部を卒業して小学部に進むか話し合いがあったとき普通であること普通に暮らすことを母は強く望んだ。担任は、普通に生活させたいと思うならここは焦らず小学部で発声などの勉強をさせたほうがいい、

 と譲らなかった。母は折れた。

 

  中学校、高校と普通校で学んだ。

  辛かったのは、無視したと言われることだった。盲聾学校で学んだお陰で、聞き取り難いものの唇の動きで言葉が読み取れるようになっていた。発声も学習で習得していた。それが、徒になった。難聴あることを

 知らずにいた同級生たちは後ろから声を掛けたの
に知らん顔をしたと詰った。

  後ろから声を掛けられることは本当に辛かった。


 

  盲聾学校の小学部のとき課外授業で習った陶芸に強く心惹かれていた。

  高校を卒業すると綾部市奥上林に窯を作った。

  限界集落であったためただ(無料)のようなものであった。

  陶芸に関する本などを盲聾学校の先生たちからいただき、それで覚えた。


 

  何とか生活ができた。それは、何とか自活できることは、嬉しくて嬉しくて有難い事だった。しかし、大学に進学して普通のサラリーマンになることを望んだ母は失望した。


 

  そんなところへ考えもしなかった結婚の話が来た。

  いい子だから何も言わずもらって欲しいといった。

  母は、私に障害があることを下に見てそんな話を持ってきたのだ、といった。


 

  相手の家は、バブルのときに商売を広げ過ぎて仕舞いに大きな負債を抱えて倒産した。

 膨らんだ借金を返すためにもともとの家業であった仕出し料理屋だけを続けている。朝5時前後に起きてスーパーなどに納める弁当を作り、仕出し弁当の注文に応じ、午後1時頃から仮眠を取り4時頃から注文の

 仕出し弁当を作り、夜
10時頃までに明日の仕込を終える、そんな毎日を送っていた。一日もそれは欠かせなかった。休みは正月の一日だけだった。

  彼女は、学校に行っている以外はそれに従った。中学の修学旅行にも行かなかった。

  高校にも進学しなかった。担任と学年主任が揃って成績優秀だから進学させてやってくださいと頼みに来たが断った。

  十八になったとき、毎日まな板の前に立っていて仕舞いに背中が曲がってしまった母親が「このまま家においておくのはかわいそうです。嫁に行かせたい」、と父親を説得した。

 

  私は考えもしなかった話だしこんなところへ来てくれるなら嬉しいと思った。

 

  挙式だけでも、と母は願ったが、彼女の家に貸衣装代を払う余裕はなく正月一日だけの休みであれば無理なことであった。

  花嫁は普段着で嫁いで来た。

  「つまらないものですが家で作ったものです。田舎の料理ですからお口に合うかわかりませんが召し上がってください」

  両親は両手一杯にその地方の特産である鯖寿司を持たして挨拶だけを済ませて帰っていった。明日の仕込があるということだった。

 周りは静かだった。花嫁が来た所為もあるのか正月の落ち着いた華やいだ雰囲気が漂っていた。

  

  私が風呂から上がってくると卓袱台に夕食の用意がしてあった。

  母がお祝いに持ってきてくれた『綾部』とレッテルが貼られた一合瓶の日本酒が添えてあった。

  二人で三々九度をした。

  何から話していいのか分からなかった。こういう生活を続けていて人と話すことがなかった。彼女は私の障害のことをきいていて声を掛けるのを躊躇っているようにみえた。

  私は向かい合って座っているだけで嬉しかった。

  鯖寿司は美味しかった。何の香りかした。

  「柚子です」

  「ゆず?」

  「はい。村の名産です」

お箸が止まっているのに気付くと彼女は泣いていた。

  滅多に飲まないお酒であった。自分で買って飲む余裕は無かった。買って飲むほど好きでもなかった。一合を持て余したので彼女の盃に注いだ。

  「・・・初めて口にします」

  「お父さんは?」

  「事業に失敗してからは一滴も・・・」

  「これからは少しでいいから時々呑みたいね」

  「・・・はい」

  「陶器が売れればいいのだけど・・・」

  困った顔をした。

  人は商売がうまくいくと欲が出る。それで失敗すると言う。彼女はそんな顔をしたと思った。それは違っていた。

 「・・・沢山売れたらいっぱいいっぱいお洋服を買ってくださいね」

 そういって顔を上げた拍子に涙が落ちた。

  ゆっくりと話した。「いつも一人で、お行儀が悪いことに立って食事をしていました。

炊き立てのご飯を食べたことも無く・・・」

  鯖寿司が冷たくなっていた。多分売れ残りをいつも食べていたのだろう。

 

  お湯が冷めないうちにとお風呂を勧めた。薪で沸かす風呂だった。

  流し台で水を飲んだ。三日三晩窯を焚いてそして冷めた窯から取り出した作品を並べ終えて飲む水はおいしかった。また、おいしかった。後ろに気配がした。

短い入浴だった。立って食事をすることを知れば尤もなことだった。悲しい癖になっていた。

浴衣を着て立っていた。


  袖を少し広げて、「花嫁衣裳です」といった。自死した祖母の形見であった。

  薪ストーブに乗せているやかんの蓋が音を立てていた。

  

  ぎこちない仕種で重ねた唇は初めて塗った紅の花であった。

浴衣のしたの乳房は掌から溢れた。

  私は爪の間に入り込んでしまった泥が恥ずかしかった。

  そう詫びると、

「あなたは汚れていません」と花嫁は言った。

それよりわたしは大事なことを言い忘れていた。わたしを身篭っているとき母が病気になりそれで難聴になった。

  「・・・遺伝しないからね」

  「・・・あなたの心は遺伝するんでしょうか?」

  それはわからなかった。

  「そばにいて笑わせてくださいね」

  一人住まいで笑うことは無かった。家族の中にあっても彼女は笑うことは無かった。

  今迄で一番笑ったのはどんなこと、と問われても答えられなかった。

  「君を笑わせるからね」

  「はい、いい正月になりました」

  凧が高く舞い上がった。独楽がくるくると回った。そんな正月になった。

 

 *注

  「行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花」 松尾芭蕉

 

2011年12月28日(水)
賀状
 

  賀状は正月に認めるものだ、というものの今は正月に届くように年末に書く。

  友人から届いた賀状でこういうのがあった。

 

  「昔より、賢き人の富めるは稀なり」徒然草()18

 

  こういう解釈をする人もいる。

  昔より、賢き人の富めるは稀なり:いま、世は、あげて、「下流社会」であり、大いに疑問。勝ち組と称する人々は、「賢い」人々ばかりなのだから、この兼好の説は当たらない。

  作者の、出家趣味、世捨て人への親近感を説いた段である。「賢き人の富めるは稀なりとまで言う。これほど現代に通用しない言葉もないのではないか。「貧しさ」は、「無能」

の結果であり、帰結なのだというのが、後期資本主義時代の常識なのだから。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(M・ウェーバー)(岩波文庫)を見よ。

 

  日本人の「恥」という文化が崩れているのかもしれない。

  友人は、続けて「それにつけても金の欲しさよ」と記していた。

 


柿の葉
2011年11月30日(水)
枯れ葉

 

  60歳になって定年退職し暇があったので庭を造った。

  そんな大層なものでなくこちらに躑躅、こっちに紅葉、あちらに椿、あっちに桜という風に、そうして所々に石を置いただけである。

  「二十年も経ちましたかね」

  「大きくなったな」

  静かな縁側です。

  「枯葉を拾うこともなくなりました」

  妙なことを言う。そろそろおかしなことを言い始めるのかも知れない。

  「集めて焚き火にすると自治会に電話があったとかいわれて急いで水をかけたな」

  「そうでしたね。煙が家の中に入る、とかいわれて」

  それから回覧板が回された。

  「子どもの頃、よくお友達と枯葉を拾ったものです。綺麗な枯れ葉を競って拾いました」

  そういうことだったのか。てっきり枯葉を集めて焚き火をすることだと思った。

  「もう翳ってきました」

  陽だまりに居たのだが陽は弱くなり仕舞いに翳ってしまった。

 

  「そうそう、こんなお話知っています?」

  何の話か見当つかなかった。

  「落ち葉が地に着くまでに空中で捕まえると幸せになる、というお話」

  「知らないな」

  「わたしね、大人になって一度だけ試したことがあるの」

  落ち着いたいい家庭で育った筈である。もっと幸せになりたいと願ったのだろうか。

  「何時?」

  「あなたと結婚したいと思いましてね」

  落ち葉を捕まえることができたのか聞かなかった。

 

  「すきやきにします」

  夕食の支度は二人でするようになっていた。材料の買出しも二人でしていた。

  「今日は僕が買い物に行く」

  「おねがいします」

  少しぐらい高くってもいい肉を買いたかった。妻は、きんさんぎんさんのテレビ番組を見たその日から「齢を重ねても動脈硬化を防ぐためにたんぱく質が必要ですからお肉はいただきましょうね」といいながら

 牛肉はやめて鶏肉に変えた。青魚も多くなった。


  これまで鶏のすき焼きだった。

 

  買い物籠から材料を出して並べると、

  「今夜はすき焼きですか?」

  「君が食べたかったのだろう?」

  「いいえ、わたしは言っていませんよ」

  落語であったり、漫談であったり、漫才であったり、耳の遠くなった老夫婦とか友達、近所の者同士が頓珍漢な遣り取りをするのを若い頃面白おかしく聞いていた。

  「なんと言ったの?」

  妻は割烹着のポケットから何時の間に拾ったのか柿ノ木の枯葉を出して見せた。

  「空の途中で捕まえましてね・・・」

  それでなんと言ったのだろう。

  「・・・すきです」

 


根っこ
2011年11月8日(火)
楢山節考

  

認知症の進んだ母が入所している介護施設を訪ねて帰宅してから台所にある四人掛けの食卓の椅子に腰掛けていた。

  ふと思い立って書斎に入った。

  「楢山節考」を手に取った。

  此の小説を読んだときなんともいえない気持ちになったのを覚えている。

  ビートルズの音楽を流した。

  単行本があったはずだが、旅行に携帯するのに嵩張らなくていいので文庫本も買っていた。文庫本を買うのは、もう一度読みたいと思った本である。何かの折、大抵家を離れる折に読んでみたいと思う小説を

 文庫本でも求める。


 

  遠く離れた友人の家にお世話になる折は文庫本を何冊か携帯する。往復の移動の折に読むのである。たまに、枕もとの明かりを引き寄せて寝床で失礼することもある。これが、都会に住む友人を訪ねる折は携帯

 しない。都会は頭の何処かがぼうと痺れてしまい
本どころではない。目の前を行き交う人、車、灯の目まぐるしく移り変わる刺激に身も心も地を離れ浮いてしまう。都会にいると、地方の人々より一歩先に立って

 いる気がし
て不思議だ。そうなった自分を、丘に立つ馬鹿(The Fool On The Hill、と言いたくなる。


  

  そういえば家で小説を読み返すということは無かった、そのことに初めて気付いた。

 読み返すのはいつも旅先だった。それも文庫本だった。

拾い読みをせずに最初から読み出した。

最初、70歳に引っ掛かった。次に、白い歯を石で折る、そして屍に群がる烏、最後に筵に降り積もる白い雪、と心は澱んだ。

白い歯、黒い烏、白い雪、生と死の境界が施色せずにかかれていた。墨絵の世界だと思った。


 

裏庭に植えてから初めて実を付けた柿を、出入り口の斜め前に置かれた長椅子に連れ出した母と腰掛けて食べた。

寒いかと幾度か聞いたがその度に母は首を横に振った。

「裏の柿の木に成った柿」

驚いた顔をしたが、すぐさま柿の一切れを齧った。柿の木が浮かんだのか分からなかった。母も私も柿が好物だった。それを姉が覚えていて此の頃になると柿を送ってくれた。柿の木は、母の物忘れがひどくなり

 好きだったテレビも見ず気がつけば薄暗い部屋
でぽつねんと座っていたりしだした頃に私が植えた。桃栗三年、柿八年といわれるが、今年実を付けて八年が経ったのかわからなかった。


 

これはいけない、と思ったのは、固形燃料をゼリーと間違えたのか食べたときである。

知人は、万が一それが原因で死亡したとき尊属殺人で調べられるよ、と言った。過失とか言うことではない。老いた母親に暴力を振るうのは息子が多いとも知人は言った。

私が母の口元を見ていると、両手に持った柿の一つを私に呉れようとする。

全部母が食べればいいのだが、健康診断でどこも異常がないというものの、お腹を壊されては介護の方に申し訳ない。二切れほどもらう。すると嬉しそうな顔をする。


 

施設の職員の方がこちらを見て笑って通られる。

口に運びかけた柿を素早く膝裏に隠して母は幾度も頭を下げた。

入所したての頃こんなことがあった。

「わたしはおやつをたべていない」と三時を過ぎた頃に訪ねた折に母は訴えた。

すると、此の遣り取りを聞いていた車椅子の婦人が、

「先ほど、召し上がっておられましたよ」

母は照れ笑いをした。

隠して食べることが何時頃から身についたのか知らない。だから、見られないように急いで食べる。他の方が「いただきます」と手を合わせている間に食べてしまう。

同じ職員の方が目の前を通る。同じように母は柿を隠して何度も頭を下げる。

妻も目撃して怪訝そうな顔をして私に聞いたことがあった。

「何時頃から隠すようになったのかしら?」

「人の目を盗んで食べて怒られてから、と違うかな」

「怒らないと幾らでも食べて・・・」

「手で掬ってご飯食べていたものな」

「そうね」

「綺麗好きだったのに」

「冷蔵庫に顔をいれてね」

「よく食べていたな」

「お腹壊さないか心配したけれど」

「胃は丈夫だね」


 

立冬がすぐ其処まで来ていた。風を引かせてはいけないので柿を食べ終えると施設の中に入れた。これまでは面会に来ると職員の方が付き添っていた。ここ最近は付き添わない。その理由が分かった。

出入り口の自動ドアは入るときは取っ手を押せばいいのだが出る時は暗証番号を入力してロックを解除しなければならない。

そうなのだが、暗証番号が必要だから、付き添いが要らないというのではない。

母を中に入れると悲しそうな顔をした。

慣れるかといえばそうではない。悲しそうな顔をして私に手を合わせる。自動ドアのところまで来て両手を広げて硝子に額を付けて悲しそうな顔をしたこともあった。

手を振って別れて母の視線から外れた。すぐさま母の姿を見つけようと踵を返して自動ドア越しに母を捜したが、其処に母はいなかった。

「面会にお家の方が来られると家に帰りたいと仰る入所者の方がおられて」

最初の頃、確かに面会に行くと職員の方が付き添われた。面会を終えて自動ドアが閉まると悲しそうな顔をした母の肩を抱いて職員の方が施設の奥に連れ帰った。

母は私の姿が見えなくなると施設の奥に戻っていっていた。


 

「楢山節考」は姥捨ての話であるが、主人公の「おりん」は70歳になって自ら進んで楢山に行った。食い扶持を減らすためだった。


 

まだ立ち尽くしているだろうと思った母の姿はなかった。住む家は此処だと自ら進んで母は奥に入っていった気がした。

 またなんともいえない気がした。


 

 


紫欄
2011年6月5日(日)

托鉢僧

 

 相模鉄道本線の瀬谷駅北口にある屋台で飲んでいた。

 味が悪いわけではないのに賑やかさを回りの屋台に取られていた。

 私も気に入ったのだが、友人はこういう店を探し出すのが巧い。店主が努めて静かにしているのが良い。

 「かわったね、屋台のラジオの定番は野球中継だった、それが、テレビだもの」

 Jリーグだろうか、日本代表戦だろうか蹴球を中継していた。音が絞ってあるので、却って気になった。

 「此の間、此処で西山と飲んでね」

 「第二教育課の?」

 「うん、あいつ被災地を映し出す画面をじっと見ているんだ。東北の出身とは聞いていないので宗教心の強いやつだな、って思ったよ」

 ゴールしたらしいのだが歓声が伝わってこない。

 「音声を消しているから、たんたんと被災地の悲惨な現状が映し出すだけだから、物凄さが伝わってね、ああいうとき言葉は要らないね」

 そうだろうと思う。

 「で、西山が、僧侶の姿がない、って言うんだ」

 「僧侶?」

 「寺の出身とも聞いていない。変なところに目が行くんだな、と思っていると、こう言うんだ。世界の自然災害の映像に僧侶の姿がない、と」

興味のある見方だ。

「何処の被災地も鎮めるものが必要だ、自然の霊であったり、人の霊であったり、鎮魂、それには僧侶が駆けつけなければ」

成る程と思う。確かに僧侶が祈りを捧げる姿が、世界の被災地を中継する画面にない。

「それで、突然こんなことを聞いてくるんだ、此のあたりは托鉢が来るか、って」

「来るのか?」

「一度も見かけたことがない、新興住宅地だしな。京都なら冬の風物詩とかいってなくてはならないのだろうが」

風物詩で回る托鉢は居ないだろう。


 

 それから、西山はこんな話をしたという。

『小学生のときに家が全焼した。火元で隣家も半焼した。お袋が暫く経ってからこんなことを言うんだ。お礼を述べたい、って。話を聞くと、事情聴取を受けている留守の最中

 に、僧侶が背中に布団を背負って仮住まいまで援けに来てくれた、其の僧侶に一言お礼を述べたい、って。何処の住職か、名前を告げなかった。歩いて運んでくるぐらいだから近

 隣の寺の住職に違いない。でも、思い当たる節もないし、周りに聞いても一向に埒が明かない。一目会ってお礼が述べたい、と。和尚さんは、いまどうしているか、と』

「西山が生まれ育ったのは城下町で、明智光秀に縁があるらしい」

「京都の亀岡?」

「いや、同じ京都の福知山とか言っていた。その城下町の寺町に家があった。それなら、町内の寺の住職ぢゃないか、というとそうではなかった」

「それなら直ぐわかるわけだ」

「其の当時、各家庭にテレビなどなかっただろ。それが、西山の家の火事が放送されたらしい。全国に流されるのだから大きな火事だったのだろう。でも、当たり前かもしれな

 いが、テレビなど街頭テレビしか知らない時代だから、西山自身は見なかった。托鉢僧はそれを見て知ったかもしれない。それで、近頃お袋は恍惚の人になっちゃって、斑ボケで

 記憶が定かでないらしく思い出さない、らしい」

「認知症か?」

「そうらしい。で、息子の西山は母親に代わって、最近火事の映像を見ると気になるらしい。寺町から仮住まいの堀村まで5キロはあるからそれ以上の距離を背中に布団を背負

 って歩いてきたことになる。そして、名も告げずに去った。西山も、お礼を述べたい、と思うようになったらしい」


 

『お袋は、知的にも精神的にも軽い障害があって、一度頭に入ったことは書き換えられない。小さい頃、病弱で野良仕事ができない母親に「人には親切にしなさい。物を大事

 にしなさい」と教えられた。家々を回る物乞いに僅かの施しをしては父親に母親は叱られていた。それで、お袋は人に施しをするのが当然と思い育った・・・頭が弱かったお

 袋の其処に付け込んで騙す輩も多かったけど・・・托鉢僧に甘酒を振舞った。雪がちらつく寒い日だった。家中に入って腰掛けてどうぞ、って言ったらしい。托鉢僧は、何処

 から参ったとも言わず無言で湯飲みを両手で抱え幾口かで飲み干すと、ご馳走様でした、といって頭を下げ出て行った。掌に包んだ湯飲みの温もりが心の芯まで温めたのだろう』

 

「そう西山は言ったが、心に響かない輩が最近は多い、と憎まれ口をたたいてしまった」

「外れてないよ」


 

『僧侶は、背中から布団を下ろしながら誰にともなく、「甘酒は美味しゅう御座いました」

 と言ったという』


 


木瓜の花
2011年4月10日(日)
結婚式


 

 友達の披露宴に招かれたときのことです。其の友達のお父さんのお礼の言葉が少し素敵だったので此処に書き留めておきます。

 

 『お礼の言葉として相応しいのか甚だ心許なく御座いますが、此処におります二人のように私たちも沢山の笑顔に祝福されたことを思い出します。

 ・・・お釈迦さまの「無財の七施」という教えがあります。

 金品だけが布施でない、という教えです。その七施の中のひとつに「和顔悦色施」(わげんえっしょくせ)というのがあります。

明るい笑顔、優しい微笑をたたえた笑顔で人に接する、ということです。そうすれば、その笑顔に触れた人は厭なことを忘れ心穏やかになる、という教えです。

私たち夫婦は、ついそのことを忘れたことが幾度かありました。

 結婚生活が楽しいことばかりでないことは皆さんご承知です。

 辛いとき、寂しいとき、悲しいとき、苦しいとき・・・いろいろあります。そんな心境のとき笑顔で接するのは難しいことです。私たちもそうでした。多分、そうだったと思い

 ます。結婚生活に不貞腐れた顔をして親の前に座ったことでしょう。

私たち夫婦は笑顔を消して人々に厭な不愉快な心持を抱かせたことでしょう。

 落語、漫才、コント、喜劇・・・人を笑わせる商売の方が時々「お客様の笑顔が何より嬉しいことで、此方も癒されます」と仰いますが、私も家内も人を笑わせる仕事についた

 ことは御座いませんので、人々の笑顔に相対する場面というのは生涯を通じてそうあるものでは御座いませんでした。

人の前に立つときは、大抵笑ってばかり入られない事情がありました。それが、今こうして皆様の笑顔に相対しております。

「笑顔が何より嬉しいことで、此方も癒されます」と、笑いの商売の方が仰られることが、今よく分かります。

皆様の笑顔を拝見してこれほど心が癒され暖かくなるものか、と子供のようにはしゃいでおります。

 この二人も生涯を通じてこれほどの沢山の笑顔に向き合える場面はそうそう御座いません。確かなことです。

 それから・・・「微笑み返し」という言葉が御座います。

 素敵な言葉です。

 外国に似た言葉があるのか知りません。素敵な日本語です。

今この二人は皆様の笑顔に包まれ心が温かくなっていると思います。

 笑顔が消えた二人に迎えられることは想像したくありませんが、若いときは感情の起伏が激しいものです。

私たちもそうだったに違いありません。

相手の心がどれほど冷たくなるのか、若いときは我が身のことで精一杯で相手を思い遣ることに、つい気持ちが欠けてしまいます。

今は知る由もないかもしれませんが、そんな笑みを忘れたとき、気持ちを奮い立たせて笑顔でいて欲しいものです。

といいますのも、今こうして皆様の笑顔に祝福されているからです。

暖かい皆様の笑顔の恩に報いることです。

「微笑み返し」です。

・・・止せばいいのに私たち夫婦の悔悟も述べてしまいました。

長々と詰まらぬことを述べてしまいましたこと、お許しください。

皆様、この若い二人をいつまでも、笑顔で見守ってやっていただきたいものです。宜しくお願いいたします。』


 

調べたらしく、以下にこう付け加えていました。

「無財の七施」という教え

眼施………… 温かい眼差しで接する

和顔悦色施 明るい笑顔、優しい微笑をたたえた笑顔で人に接する

言辞施……… 心からの優しい言葉をかけていく

身施………… 肉体を使って人のため、社会のために働くこと。無料奉仕

心施…………「ありがとう」「すみません」などの感謝の言葉を述べる

床座施……… 場所や席を譲り合う

房舎施……… 訪ねてくる人があれば一宿一飯の施しを与え、労をねぎらう


 


鳥取県 蒜山
2011年3月27日(日)
炎上

 

 小学五年生の一月末に自宅が全焼した。

 教室がざわざわしていた。

 なにやら胸騒ぎがした。

 三時限の授業時間が過ぎても担任が現れなかった。

名前を呼ばれた。頭が白く濁りだした。「早く帰るように」といわれた。

 帰宅したというのが可笑しく燃え尽きていた。隣家の電気店の倉庫も類焼していた。

 倉庫だから沢山の製品が在ったに違いない。もらい火という蝋燭に火を移す穏やかな情景ではない。

 お握りを二つ貰った。二つとも食べられた。食べ終えて僕は阿呆だと思った。

 小学校の隣に消防署があった。出動する消防車のサイレンと鐘がけたたましかった。

 皆が窓から身を乗り出して煙を探していた。誰かが町名を言った。自宅の在る町名だった。

 

 「得意そうな顔をして」

と言われた。教室のあちこちで、廊下で僕の名前が囁かれていた。僕は阿呆だった。

注目されて得意げな顔をした。窮地に立たされて僕の阿呆なところが出た。そういう浮ついた頭に「得意そうな顔をして」と冷水を被せられた。

 僕は本が好きだった。

 「人は窮地に立たされるとその人が本来持っている価値が知れる」

 本で知っていた。

「学歴とか地位とか当てにならない」

 赤線を引いて覚えていた。

 僕は阿呆だった。

  父が貰ってきたのか、姉が貰ってきたのかわからなかったが、母が寒かろうと子犬毛布を巻いて掘り炬燵の中に置いてやった。そうして仕事場に行った。

 「きゃんきゃん鳴いていた」

  前の住人が話していた。その住人に無性に腹が立った。八つ当たりだった。

 そんなことをすれば堀炬燵の練炭の火が毛布にもらい火となるだろう。母も阿呆だった。消防署の事情聴取に、そう母が言ったのだから呆れただろう。「学歴とか地位とか当てにならない」そんな程度では

なかった。母は学歴も地位もなかった。ただ、優
しい阿呆だった。